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オーシャン人物伝
日米野球
球聖 久慈次郎
益田喜頓
よもやまばなし
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オーシャン人物伝


伏見勇藏
橋本隆造
久慈次郎
永沢富士雄
猪子利男

 伏見勇藏(ふしみゆうぞう)1883-1949

 太洋草創期の名選手。明治16年亀田郡大野村生まれ。明治33年函館中学(現函館中部高校)から東京の郁文館中学に転校。卒業後,同中学の臨時体育助手を努めていたが,教師を目指し北海道師範学校に入学。明治42年卒業し太洋倶楽部に入部。鉄腕橋本隆造とバッテリーを組んでの活躍など,函館太洋倶楽部育ての親と言うべき人物。体重25貫余り、身長6尺近い体躯の持ち主であったが、もともとの酒嫌いで、オチョコ一杯で、グロッキーになったと云われる。第一線を退いた後もひたすら太洋倶楽部を側面から支え続けてきたが,昭和24年10月23日,松前郡小島村において同村青年団との野球座談会中に突然倒れ、手厚い看護も及ばず翌24日午後脳溢血で他界した。享年67歳。
 橋本隆造(はしもとりゅうぞう)1894-1966

 明治27年新潟県長岡市生まれ。長岡中から早大に入学。大正6年の早大野球部台湾、マニラ遠征で五日間連続登板で好投し、マニラの英字新聞が「鉄腕投手」の称号でその奮闘を讃えた。大正7年早大を中退し太洋倶楽部に入部。大正11年7月,来函した西日本の雄「大毎チーム」との対戦で久慈とバッテリーを組み,火の出るような速球と大きく落ちるドロップで快投・勝利し,全国にオーシャンの名を広めた。昭和14年8月,久慈次郎亡き後,三年ほど監督を務めた後,昭和19年に生まれ故郷の長岡に戻り,暇をみては時々母校である長岡中学へ出かけ後輩の育成に努めていた。函館太洋倶楽部第一期黄金時代の名投手。 昭和41年2月14日逝去。
 久慈次郎(くじじろう)1898-1939

 正装した市議時代の久慈

 明治31年青森に生まれ、幼少年期を盛岡市で過ごす。大正11年に早稲田大学を卒業後,函館太洋倶楽部に入部し17年間在籍。昭和2年から始まった都市対抗野球には9度出場。また昭和6年と9年に行われた米国大リーグ選抜との対戦では全日本の主将兼捕手として参加し、沢村栄治やスタルヒンともバッテリーを組む。その後も、監督兼選手として活躍したが昭和14年の試合中、捕手の牽制球を頭部に受けて死去。(享年42才)

 球聖 久慈次郎へ

 永沢富士雄(ながさわふじお)1905-1985

 巨人軍時代の永沢選手

 明治38年生まれで函館商業出身。昭和の初期に中軸打者として活躍。昭和9年に函館湯の川球場で行われた大リーグ選抜チームとの第3戦では全日本チームの五番打者として活躍。その後久慈の推薦を受け大日本東京野球倶楽部(巨人軍の前身)に入団。昭和13年の巨人軍北海道遠征で太洋倶楽部と対戦した際,この年入団した川上哲治が負傷した永沢選手にかわって一塁を守り,2本の二塁打を放ち,秋のリーグ戦からレギュラーとなった。この川上にとって記念すべき試合のオーシャンの捕手が久慈次郎であった。永沢は川上にかわるまで巨人軍の名一塁手、そしてキャプテンとして活躍した。 巨人軍の初代4番打者。
 猪子利男(いのことしお)1921-1998

中央が猪子氏。

 大正10年愛知県生まれ。野球の名門東邦商業(現東邦高校)を経て昭和16年南海ホークスへ入団。終戦後の昭和23年に太洋倶楽部に入部。俊足・好打・攻守を兼備した遊撃手として戦後の太洋倶楽部を支えた中心的な選手の一人。 退団後も函館をこよなく愛し,函館に住み続けた。創部90周年(平成8年)を期に自ら函館太洋倶楽部OB会の設立に奔走し,平成9年2月初代会長に就任し,後進の指導にあたっていたが,翌平成10年5月風邪をこじらせ惜しまれつつ,78年間の生涯を終えた。

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日米野球


【昭和6年】
 ゲーリッグら大リーグ選抜チームが来日。初の全日本チームが選抜されたが,17戦全敗。
<全日本軍の主なメンバー>
 監督:市岡忠男(読売運動部長)
 主将(捕手兼任):久慈次郎(函館太洋)
 投手:伊達正男, 若林忠志
 野手:山下 実,松木謙次郎,三原 脩,苅田久徳,水原 茂など


【昭和9年】
 ゲーリッグ,ベーブルース等の大リーグ選抜チームが2度目の来日。全日本軍の善戦空しく16戦全敗。(残る2試合は日米混合戦)
<全日本軍の主なメンバー>
 総監督:市岡忠男
 監督:三宅大輔,浅沼誉夫
 主将(捕手兼任):久慈次郎(函館太洋),
 投手:沢村栄治,青柴憲一,伊達正男,スタルヒン
 野手:三原 脩,苅田久徳,水原 茂,永澤富士雄(函館太洋),二出川延明,中島治康
     山本栄一郎,山下 実、倉信雄など

<全米軍の主なメンバー>
 総監督:コニー・マック(アスレチックス)
 助監督:アール・マック,フランク・オドゥール
 投 手:ゴーメッツ(ヤンキース),ブラウン(インディアンス),ホワイトヒル(セネタース)
 捕 手:モー・バーグ(セネタース)
 野 手:エヴィレル(インディアンス),ゲリンジャー(タイガース),ベーブルース(ヤンキース)
      ゲーリッグ(ヤンキース),フォックス(アスレチックス)など
<函館での開催>
 昭和9年,大リーグ選抜チームの二度目の来日が決まった際,全日本軍の総監督,市岡忠男から久慈に函館開催の打診があった。この年3月,函館では市内の半分が焼失するという未曾有の大火があり,野球どころではないという意見も多かったが,こういう時だからこそ市民に勇気と安らぎを与えたいとの久慈の強い意志から,11月8日,日米野球がみぞれ降る北のまち函館(湯の川球場)で開催されることになったのである。

 青函連絡船上の米軍選手達

 ベンチで暖をとるゲーリッグ選手

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球聖 久慈次郎


 明治31年青森市に生まれる。幼少年期を盛岡市多賀野で過ごし盛岡中学から早稲田大学に進学。
 大正11年卒業とともに函館水電(北海道電力の前身)に就職し函館太洋倶楽部に入部。
 昭和2年,久慈運動具店を開く。
 1931(昭和6年)年と1934(昭和9年)年に来日した米大リーグ選抜チームとの日米野球大会で,両年とも全日本チームの主将兼捕手として活躍。ベーブ・ルースやゲーリッグといった伝説の大リーガー達を相手に,若き日の沢村栄治やスタルヒンらをリードした。
 昭和9年12月に読売巨人軍の前身,「大日本東京野球倶楽部」が創立され,このチームに参加を要請された。それも主将として,他選手が百円台の給料だったのに対して,久慈には破格の五百円という待遇だった。しかし,春先の大火で市街地の半分を失い,復興ままならない函館のまちを,そして自分の家業を見捨てることが出来ず,昭和10年初頭,監督の三宅大輔宛に次のような書簡を送っている。

 「拝啓、のぶれば皆々様御健勝の段賀し奉り候。私儀、この度の大日本野球倶楽部設立に際し,非才の身をもち主将の重職に任命され感激おくあたわず。粉骨砕身,もつて発足する新球団の為に働く所存により候ところ,家業に手離しがたき事生じ,真に申訳なきことと存じ候えども,球団より身を引くの止むなきに立ち至り候。これまでの御厚情の数々を思えば,身を切らるる思いに存じ候えども万やむなく,ご叱責覚悟の上にてこの状したためおる次第に御座候。思えば私に課せられた任務は極めて重く、沢村投手を秀抜なる投手に仕上げるべき責任を担い、私もそれを何よりの愉しみと考え、渡米の日来たるを指折り数え待ち憧れいたるところ、函館へ帰着以来家業の業態を点検するに及び、アメリカ行きを断念せざるを得ぬ事情を発見仕り候・・・・」

 今日,久慈次郎の名は巨人軍の「初代主将」として記録にのみ残されている。

 
【運命の年】
 昭和14年8月19日,札幌神社外苑球場(円山球場)で行われた全道樺太実業団野球大会での対札幌倶楽部戦。
 この年も7月30日から開催された都市対抗野球大会に出場した太洋倶楽部は,札幌での試合に参加できる選手も少なく,久慈としても,この大会参加には余り乗り気ではなかった。2対1とリードされた7回一死二塁,一打同点のチャンスを迎え,ここで打者久慈。札幌バッテリーは久慈を敬遠した。一塁へ歩こうと一歩踏み出し,次の打者に何か指示を与えようと立ち止まった瞬間,俊足の二塁走者を警戒していた捕手の牽制球が右のこめかみあたりを直撃。すぐに札幌市立病院に運ばれたが,不眠不休の看護も空しく,2日後の21日午前9時37分,遂に帰らぬ人となった。(享年42歳) 遺体は同日夜,特別列車で函館に帰ってきた。また,新聞は様々な見出しで,その訃報を伝えた。
 「謹而哀悼・久慈次郎選手の急逝」(北海タイムス)
 「今ぞ偲ぶその遺業”久慈精神”の流れ 父を失った道野球界」(小樽新聞)
 「本道球界の大御所 久慈君つひに逝く 人格技倆全國に遍し」(東京朝日)
 「球界の至寶 久慈次郎氏逝く」 「太洋黄金時代の花形 嗚呼!!今や亡し」 等々

 8月23日函館太洋倶楽部葬が挙行され,千人を超える会葬者が参列し,この葬列を見送る人々で沿道は埋め尽くされた。
 また,早大時代の恩師,安部磯雄氏も駆けつけ霊前において次のような弔辞を述べた。

 「久慈君の事に対し一言申し上げるが,同君は早大に入学したのは大正7年で直ぐに野球部に入り,越えて10年には自分の監督のもとに米國に渡米し転戦の後,帰朝したがその後の同君の技量はますます認められてきた。実は早大野球部中においての人望は大なるもので人格者であった,それで同輩からは久慈さんと云う者なく次郎さん次郎さんと云い,その親しみぶりを持っていた。今此球界における至宝久慈君と永遠の別れを告ぐるのは実に悲しみにたへぬ次第である。尚,最後に一言申し上げたいのは札幌倶楽部の捕手で,その胸中は自分として推察に余りあるものである。決して彼としてもこの不慮を見通しての事ではなく,これがために彼をして一生球界から退く事となるなどはもってのほかで。競技上における不慮の災難の結果としてその意を表する事は勿論であるが,これがために彼の球界に対しての貢献をますます高めていただきたいと自分は思ふ次第であるからどうか参列の各位においても彼に対し此意を伝えて下さることを特に祈りする次第であります。」

 函館山の麓にある称名寺にはボール・ホームベース・バットを形どった久慈の墓がある。(右の写真)

 この久慈次郎の敢闘精神を記念し,昭和22年の第18回都市対抗野球選手権大会から「久慈賞」が設けられ,また,昭和34年,第一回特別表彰を受け,沢村栄治,小野三千麻らと共に野球殿堂入りを果たしている。

  運命の試合前、右端が久慈

  久慈次郎の墓(称名寺)

   
お墓への案内図

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益田喜頓


 明治42年函館市青柳町生まれ。本名 木村 一。大正13年函館商業へ編入し三塁手として活躍。当時,選手不足に悩まされていた太洋倶楽部に時々借り出されては選手としてプレーすることもあった。その後,三年生の時に北海中学に再編入。サードとして猛練習に明け暮れていたが,甲子園地区予選を前に腸チフスに罹り,傷心のおもいで函館に戻る。一年ほど静養に努め,大正15年,太洋倶楽部に入部することを条件に地元水産会社に就職する。攻守・好打で活躍するが,致命的に足が遅かったことから野球に対する情熱を失い昭和3年に退団。その後,演劇・芝居に夢を求め札幌へ。坊屋三郎らとあきれたボーイズを結成し芸能界で活躍した。
晩年は函館で余生を過ごす。平成5年逝去(享年84歳)1909-1993
<主な受賞歴>
昭和52年紫綬褒章受章
昭和59年勲四等旭日小授賞受賞
昭和61年第11回菊田一夫賞特別賞受賞
平成2年函館市栄誉賞受賞(第1号)

選手当時を懐かしむ喜頓氏
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オーシャンよもやま話



◎井上ひさし氏の著書「本の運命」の文中にも函館太洋倶楽部についての記述がありました。

井上ひさし 「本の運命」文藝春秋社
 

第4章「無謀な二つの誓い」の巻

■野球への夢は散る

 「あれ,野球選手になるつもりじゃなかったの。」とおっしゃる方がおいででしょうが,ころころ変わるのも,僕の悪い癖で―――(笑),野球はすでにあきらめていました。

 一関時代,飯場対抗野球リーグがあって,僕も大人に混じってチームに入り,二塁や三塁を守ってました。

 飯場にはいろんな人が集まってきます。戦争中,上海でなにか怪しげな新聞社をやっていたという人,地下潜伏中の左翼運動家,学資稼ぎの学生さん,結構インテリもいたんですね。

 その中に,明治大学を一年休学して来ている人がいて,この人は明治の軟式野球部で,補欠ですがピッチャーをやっていた。もちろんリーグきっての投手です。

 

 僕が野球をやりたいという話をしたら,その人が,

「おまえは,硬球の恐ろしさを知らない」と言って,久慈次郎という人の話をしてくれたんですね。

 久慈次郎は,盛岡中学から早稲田に進み,正捕手として活躍した名選手です。昭和九年にベーブ・ルースやゲーリッグが来日し全日本チームと対戦しますが,この時のキャプテンもつとめている。沢村が投げて一対0で惜敗した静岡草薙球場の対戦が球史に残っていますが,その時,沢村の球を受けたのが久慈です。

 その後,巨人軍の前身の大日本野球倶楽部創設の際に,キャプテンとして来てくれと誘われますが,三十歳をはるかに超していたので断る。函館で運動具店を経営しながら,函館オーシャンというクラブチームの監督兼キャッチャーをやっていました。ところが昭和十四年,札幌で行われた実業団野球大会で,二塁牽制球を頭に受けて昏倒し,そのまま亡くなってしまう。

 その話を,実に詳しくしてくれたんですね。そこで,「もうやめた,やめた。野球で死ぬのはイヤだ」ということになっちまった(笑)。もちろんその頃には,自分にまるでまるで才能がないということもわかっていました。

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