〇平成27年7月7日の朝日新聞(新潟版)に鉄腕「橋本投手」の記事が掲載されました。
H27.7.7asahi.PDF へのリンク
〇今話題の映画「バンクーバーの朝日」
○2015.1.12up
 
 このお正月に、19世紀末から戦前にかけてカナダのバンクーバーに実在した日本人野球チームの物語が、妻夫木聡の主演で放映されていますが、このチームは日本運動協会に招かれて1921年(大正10年)に日本に遠征をしています。

 この年(大正10年)、函館水電会社は、湯の川方面の発展と野球の隆盛を期待し、太洋倶楽部とタイアップして新球場建設を計画、場所を柏木競馬場に選定し、1万2千坪の土地に1万円弱の巨費を投じて木造スタンド11階段、収容人員5千人を上回る球場(柏野球場)
を完成させました。

 当時(大正10年)の函館には、カナデアン・スターズの来函をトップ(7月)に全ハワイ(9月)、ワシントン大学(9月)、バンクーバー・アサヒ(9月)、ハワイ・スター(10月)、シャーマンインデアン(10月)、シャトル・アサヒチーム(10月)、ハワイ日本人チーム(11月)、ハワイヒロチーム(11月)等、続々と押し寄せてきたため、狭い日本では試合するチームが当時は関東、関西と、北海道しかなかったため、種々の悲喜劇がおこったようです。
 先ずこのトップをきったカナデアン・スターズ(当時は準職業人チームと呼ばれていた)チームは、あまり滞在日数が長期に渡ったため、とうとう帰途の旅費がなくなるという悲劇が起こったとのことです。

 バンクーバーの二世チームアサヒ軍は、10月13日夜来函して、湯の川温泉の東洋館で旅の疲れをいやしましたが、14日、15日は雨のため、16日(日曜日)に第一回戦を太洋と行いました。
・・・カナダ軍の去った10月16日、バンクーバー・朝日軍(晩香坡朝日軍)と太洋倶楽部が対戦、遠征疲れの残る朝日軍との初戦は、8対0で大勝しましたが、二回戦は、4−10A、三回戦は、0−1と太洋倶楽部としては1勝2敗の成績でありました。

太洋とアサヒの主な出場メンバーは 
<太洋>
(投手) 橋本、桑名 (捕手) 三田村 (一塁) 北條 (二塁) 笠島 (三塁) 大川 (遊撃) 西勝
(左翼) 加藤 (中堅) 伊豫田 (右翼) 瀧澤、木暮、松井

<アサヒ>
(投手) ペプキー、ラーソン、北川初 (捕手) 堀居 (一塁)  吉岡 (二塁) 新見 (三塁) ペプキー、ラーソン (遊撃) 伊賀 (左翼) 古本、宮田 (中堅) 北川英 (右翼) 内山

1回戦  
チーム バッテリー
太 洋 37 橋本=三田村
アサヒ 27 10 11 ラーソン=堀居

2回戦
チーム バッテリー
太 洋 36 11 桑名、橋本=三田村
アサヒ × 10 37 北川初=堀居

3回戦
チーム バッテリー
太 洋 31 橋本−三田村
アサヒ 28 ラーソン=堀居


 なお、現在放映している映画に出演した朝日のメンバーが函館に来たかどうかは不明です。

 函館太洋倶楽部は、創部1907年(明治40年)で、来年(2016年)創部110周年を迎えます。
 
 これからも函館太洋倶楽部をよろしくお願いいたします。
○北海道新聞 10月6日夕刊にノンフィクション作家「合田一道」氏の記事がありました。
H26.10.6.doushin-yuu.PDF へのリンク
○2012.9.4up

 札幌ドームにある北海道日本ハムファイターズの専用クラブハウス(選手ロッカーの一角)内に、日ハム選手に北海道とファイターズの野球史を学んでもらうために、北海道の野球発展に寄与した関係者の写真が飾られています。
 球団の歴史を振り返る写真が多い中、個人の写真は、球団史上2度の日本一を達成した当時の監督である水原茂監督、トレイ・ヒルマン監督のほか、球団初代オーナーの大社義規氏、旭川中学出身で巨人で活躍したヴィクトル・スタルヒン投手、そして一番最初に飾られているのが、オーシャン倶楽部の名捕手、久慈次郎選手です。
 久慈選手は、スタルヒン投手と昭和9年の日米戦でバッテリーを組んでおり、旭川中に在籍時にもピッチングの指導をしています。また、水原監督も、昭和6年と9年の日米戦で大リーグチーム相手に一緒に戦っており、戦後、巨人軍の監督になり北海道遠征の際には、必ず久慈選手のお墓参りをしていました。オーシャン・スタジアムの前にある久慈選手の銅像に書かれている「球聖 久慈次郎」の書は、昭和53年に水原監督に書いていただいたものです。
 (写真提供:日本ハムファイターズ)
写真、左から、久慈次郎選手、ヴィクトル・スタルヒン投手、水原茂監督。
○昭和28年8月、巨人軍の北海道遠征の際に久慈選手のお墓に線香をたむける水原監督。隣には、巨人軍初代4番打者でオーシャン出身の永澤選手。
○2012.3.20up

○益田喜頓氏の著書より

明治42年函館市青柳町生まれ、本名、木村一、函館商業からオーシャン倶楽部に入部、その後、日本を代表するコメディアン、俳優として活躍。そのキートンさんが昭和55年に書かれた「下町交狂曲」(毎日新聞社)の中の一部をご紹介します。

○第四楽章「下町の私」 函館のこまっちゃくれ

<元祖、スカウト>
 僕が小さかったころ夢中になったもののひとつに、野球があるんです。
 今はもうなくなりましたが、函館に住吉小学校というのがありまして、ここはなかなかの野球の名門校だったんです。普通は六年にならないと、正メンバーにはなれないんですよね。ぼくの場合、四年の時にもう正メンバーになってたんですけど、いやァ、たいへんこまっちゃくれていたことは事実です。
 あの当時は三年続けて優勝しないと、優勝旗を自分の学校に持って来られないというシステムなんです。で、ぼくはちょうどピッチャーで四番バッターですよ。まったくひどい・・・・
 もうその時には、伯父貴なんかはね。おまえ、野球なんかばっかりやってたら、学校はとても上の方へ行けるもんじゃない、勉強せいといって、家へ来るとガミガミ怒るんです。試合の最中にスタンドから・・・・ぼくの本名は木村一(はじめ)っていうんですが・・・・はじめ、頑張れ!とかね、何か変な声がしたと思って見ると、いつも怒っている伯父貴がちゃんと応援に来たりしてました。まあ、それは盛大なものだったですよ。それで、とうとう三対二で負けたんです。完投したんですけど、負けましてね。あの時の涙っていうのは、どのくらい出たかわからないですね。そのあと、函館商業学校へすぐ入ればいいものを、弥生小学校というところの高等科の野球チームが、ぼくをスカウトに来たんです。馬鹿だねえ、スカウトされたからってんで、そっちへ行ってまたピッチャーをやったわけです。ええ。その時は優勝しまして、そしたら函商から、来いと声がかかって、函商に入ったんです。一年のくせに、サード・ベースを守らされたんだから、かなりうまかったのかな?
 考えてみると、小学校時代にぼくはね、恋をするってんじゃないんだけど、なんとなく好きな女性がいました。ぼくたちの時は、男女別で、同じクラスじゃなかったもので、女の子たちに二階から、木村さん頑張ってェなんていわれて、また一生懸命やったものですよ。当時は女の子とデレデレしてると、学校の裏の林に引っ張って行かれて、ぶんなぐられたもので、男女関係なんてありませんでした。
 小学校の時、伊倉っていう女の先生がいましてね。この人は唱歌の先生で、ものすごくきれいでね、ぼくはこの先生がたいへん好きだったんです。まあ、あっちこっちに好きな人はずいぶんいたんだけれど。この人は年のころ二十二、三ですか。とても好きでしたのに、ある冬のこと、ちょっと二枚目の男の先生と仲よく話をしながら、校庭へ出てったんです。雪がパーッと降っていて・・・・それで、雪をボールにして、その男の先生の頭めがけて投げたらね、なにしろぼくは野球の選手ですから、まともに当たっちゃた。その先生がこっちを振り向いた時に、すっと引っ込んだんだけれども・・・・めっかっちゃって、ひどい目にあったことがあるんですよ。殴られたわけじゃないが、水を入れたバケツを二つ、両手にさげて、教室の隅っこに立たされてね。これはなかなか、苛酷なもんでしたよ。

<届かぬスライディング>
 そんな具合で,今の高校ですが、そのころの中学時代に、函館商業に三年までいて、そのあと北海中学(現:北海高校)からスカウトされて転校したり、とにかく野球ばかりやらされていたわけです。函館にオーシャン・クラブ(太洋クラブ)っていうノン・プロのチームがあったんですが、これは日魯漁業が資本出してた早稲田系のチームなんです。当時プロ野球がなくて、ノン・プロでは大毎、東電、読売なんかがあったわけだけど、ぼくはそのオーシャンに、十八、九歳のころ入ったんです。キャプテンが久慈次郎さん。のちにボールがこめかみに当たって亡くなりましたが・・・・。東京にプロ野球チームができて、会社に勤めなくても野球ばっかりやってれば、ちゃんと月給がもらえるから、と、ぼくと永沢(注:のち巨人軍のファースト)というのと二人、最年少者で送られるという段取りにまでなったんですよ。
 ところがね。ぼくはどうしても足が遅い、たいへんな鈍足なんです。これはぼくの大欠点。普通、サード・ベースまで行くのに、ぼくはセカンド・ベースでやっとなんです。そのくらいランニングが遅かったもんですから、これで果たしてうまくいくかと、ずいぶん考えました。当時、ベーブ・ルースがアメリカのプロ野球の大スターで、ベーブ・ルースのボールっていうのは、内野フライでも、だいたいセカンド・ベースまで走って行けるくらい高く上がるんだな、なんていう話でね。この人はやっぱり足が遅いんです。それで、スライディングがたいへんうまい。だから、足が遅いのをスライディングでカバーしてた、という話を聞きましてね。おれも足が遅いからスライディングを稽古してやろうかな、と思って、スライディングを一生懸命・・・・・。
 ファースト・ベースからセカンド・ベースのだいたい中間ぐらいから、ベーブ・ルースはもう滑ってたというんです。そんなことはあるわけないんだけど、ぼくはそれを鵜呑みにしてたんですよ。そこが阿呆なところだ。で、客がいっぱい入っているところで、ファーストからセカンドへ盗塁する時、走ってから半分くらいだなと思ったとこから、ズーッと滑っていったんです。砂ぼこりがビューッときてね・・・・で、見るとベースはずうっと向こう。
 客はワーッと笑うしね、こりゃ久慈キャプテンに叱られる。おまえ何ということをしたんだ、って、セカンド・ベースの四メートルぐらい手前で、そりゃもう。それ以来、スライディングはあんまりやらなくなりました。
 そう、ぼくは今のプロ野球でいえば、長嶋タイプだったかな。ぼくはサードばっかりやったから、あの人のプレー見てていつもそう思うんだけど、まあ、あれは神様ですね。サードっていうのはショート側の方が得手なんです。ライン際っていうのはなかなかむずかしい。ライン際まで行って、バックで取って、それからファーストへ投げるのは、よっぽど肩に自信がないと、スパッといかないんですよ。ところが、長嶋はほとんどライン際のボールを取りますよね。取って放る球がヒューッと行くんですよ、あの人の場合は。ぼくはとても、あんなことはできなかった。それから、ゆるく前にころがって来た球を、取ってジャンプしたまま、上から放りますでしょ。ジャンピング・スローですね。あれができる人は、当時だれもいませんでした。
 カリフォルニアから、フレスノというチームが日本に来たことがあるんですが、そのチームと試合した時に、びっくりしたことがあるんです。ぼくはサードでしたけど、フレスノのサードはマミヤっていう二世の男で、こいつはタクシーの運転手だっていうんですがね。ぼくが今まで見たことのないプレーをしたんですよ。つまりね、前に転がって来るボールを、ぼくらだったらかがんで取るわけです。ところがマミヤってのは、つっ立ったまま取って、そのまま横から放ると、スーッとカーブしながらファーストへ行くんです。モーションが、ものすごく早いわけですね。チキショウ、この野郎、と思ってそれを一生懸命に勉強しました。だけど、とてもじゃないが、できませんでしたよ。それが頭にこびりついちゃって、寝られなかったりしました。

<久慈次郎さんの教訓>
 それと、今のプロ野球の選手見ててね、キャッチャーとしては、久慈キャプテンのような人はいないですね。というのは、ぼくは三年間一緒にやったわけですけれど、久慈さんはファウルを、マスクをはずしたら必ず取った。絶対にです。マスクをはずさない時は、取れないところにボールが行ってた。これはうそじゃないんです。あれだけのキャッチャーは、今のプロ野球にはいないですね。ボールがバットに当たった瞬間に、音と、ボールの当たった角度・・・・やっぱり何ていうのかな、ひとつの勘ですね。その勘で十のうち九つは間違いなく取りましたよ。よく、あんなことができたと思いますよ。
 それからもうひとつ驚いたことは、セカンド・ベースの上に、バットを逆に立たせて、久慈さんがキャッチャーの定位置からボールを取って、サッと放るとね。このバットに五つのうち三つは当たりましたよ。ですから、セカンドを守る奴は楽でしたね。いや、これは本当なんです。ええ。それとね、ピッチャーに返す球は、必ず胸のところにしか返さない。ほかのところには絶対に返さないんですよ。ピッチャーに、くだらない労力をちょっとでもかけさせちゃいけない、ということでしょう。千回投げても、一回もくるわさない・・・・これは立派です。今、こんな選手はいないですよ。
 ですから、さすがに神様だと思うのは久慈キャプテンと、サードでいえば長嶋ですね、一世紀に一人くらいしか出ない野球選手として。王も、そういうことがいえるかもしれません。
 野球選手と俳優・・・・どちらも観客の前でやるわけで、共通するところがあるんですが、ぼくはその久慈キャプテンに、しごかれ、そして叱られながら野球をやって、あとで役者になって、ずいぶんためになったことがあります。
 たとえば、あの当時、函館の市電ですね。動き出した電車に飛び乗ったりすると、ものすごく叱られたもんです。つまり、おまえは函館を代表してる選手だぞ、それがくだらないことでケガをしたらどうするんだと。それから、練習開始の二十分前には、久慈さんはもうユニフォームを着てました。で、ぼくもいつもナインのことを考えながらプレーしてましたから、芝居をやるようになっても、未だに一人芝居がどうしてもできません。全体のアンサンブル・・・・役者たち、それに照明にしても何にしても、すべてが総合されて一つの立派な舞台ができあがるんだと、そういうことが、いつもどこかにこびりついてるもんだから、他人の芝居を食おうと思ったことは一度もないし、自分だけよく思われようとしたりもしなかった。それはやっぱり、野球をやったお陰じゃないか、なんていう気がしますね。とにかく、久慈さんていう人は立派な人でした。ぼくの野球の師であると同時に、人生の師でもあったんですね。お墓参りに行ったら、大きな野球のボールの形をしたお墓でしたよ。
【10.02.20アップ】

◇引き続き、大正14年3月30日発行の「早稲田大学野球部史」(編纂 飛田忠順氏)の中から早稲田大学の創設者である大隈総長の薨去(コウキョ)と野球に関するページを紹介します。










<写真説明>
 前列中央の袴姿が大隈重信侯
 最後列中央の一番背が高いのが久慈次郎(右から6番目)
 (写真は、故久慈次郎氏(久慈選手の四男)提供)
  大隈総長の薨去

 世界的偉人として又本大学の建設者たる、総長大隈重信候薨去さる。実に大正十一年一月十日であつた。候は十年晩秋より気色すぐれず、早稲田の自邸に於て療養に尽くされたのであるが、八十五歳の高齢とて遂に薬石の効なく、眠るが如く歴史中の大偉人となられた。
 侯の政治的偉業や、其の他は今茲に贅言(ゼイゲン)する必要はない、吾人は唯生前に於ける大隈侯の野球愛護に対する感謝の辞を述べ、以て侯爵の死を悼みたいと思ふ。
 侯が当部の為めにいたされた愛憐は決して尠(スクナ)くなかつた。三十八年の渡米に際しても先づ賛意を表され、安部部長を激励されたのは侯爵であつた。以後侯は事ある毎に援助を与へられたが、殊に感謝に堪えないのは外来チームに対する侯爵邸のテーパティ(ティーパーティー)であつた。
 早稲田関係の外来野球団は必ず同邸に招待され、其の都度多忙な時間を割れて一場の挨拶をされるのが常であつた。当部選手は勿論、外来の選手に接しても慈父の如き温容を以て、何にかと有益なる談話を賜はつた。
 青年の元気伸張に関する高論は屡々(シバシバ)席上に湧いたが、大正九年十一月下旬米国商売人を早稲田邸に招かれたる時は、特に長時間の大演説を試みられ、彼我選手と頗る元気に談論された。侯爵は其の人物が偉大であるばかりでなく、体格も又日本人の代表的のものであつた。自ら聊(イササ)か是れを誇りとされたらしく、米選手と背比べをなし、我輩敢て劣るものでないと高笑され軈(ヤガ)て早稲田選手の傍に歩をはこばれた。我輩より高いものがあるか、其処には長身五尺九寸の久慈次郎がゐた、侯爵は早速久慈選手を招き、並列して並居る選手に判定を乞ふた。一同が侯爵の劣れる事を答ふると、呵々大笑され、我輩より高いとは頼母敷い、我輩も五尺八寸余あるんであるから、君は六尺はあらう。日本人もかう大きくならなくてはいけない。然し背ばかり高いたけではいけない。人間は腹が大きくなくてはいかん、古人も臍下丹田と言つてゐる。我輩の腹はかんかんしてゐる。諸君のはどうだ?
 再び久慈選手を引出して、侯爵自ら同選手の腹を押し、「フム可成堅い、然しこれは我輩の方が勝である。我輩のを押してみい」と久慈選手の前に突出される。久慈選手が恐る恐る侯の腹を押すと、「これが明治維新をつくつた腹だ」と愉快気に笑はれ、青年は元気に満ちてゐなければ駄目であると一同を諭した。
 大正十年秋来朝の華盛頓大学(ワシントン大学)を招ける際の如き、既に微恙(ビヨウ)中であられたが、押して庭前の芝生に其の雄姿を現はされ、「生気に充ちた青年の顔を見ると、病苦などは忘れて了まふ」、と冐頭され、「海を隔てた両国の青年達が、野球技の上に温い握手をする事は、軈(ヤガ)て日米親善の楔子(ケッシ)となる。世界の平和は、スポート(スポーツ)、芸術の方面に依つて健全に招致される。それは執拗なる利害関係を離れたものであるからである」と両大学選手に教へ「元気な諸君に会ふて気持が清々した」と微笑を漏された。
 かくて記念の撮影をなし、何時に変はらぬ親みを残されて奧に入られたが、嗚呼この言葉も、この写真も遂に最後のものとなつた。
 死生もとより偉人の力も及ぶべきではない。唯侯爵生前の言の如く、百二十五歳の長寿を保たれたならば、当部又多大の温情に接し得た事であらうと思ふ。
 こゝに謹んで侯爵の冥福を祈ると共に、生前の大なる愛護を感謝したい。早大野球部が海外的に活動し得た反面には侯の同情が動いてゐた事を認めねばならぬ。この意味に於て侯は確かに野球界の一恩人であつたと思ふ。
【10.02.10アップ】
◇大正14年3月30日発行の「早稲田大学野球部史」(編纂 飛田忠順氏)の中から大正11年の函館遠征に関するページを紹介します。
   太洋倶楽部の招聘
 北海に雄を誇る函館太洋は新たに久慈選手の投ずるあり、先に大阪毎日を迎撃して二勝し、実業団中最強を以て任じている。
 夏期頻りに早大の来函を乞うてやまず、即ち厚意をうけて夏期練習を柏野に行う。湯の川常盤木に宿泊、日々の練習にいそしむかたわら、太洋軍と前後五回に亘って戦つた。
   太洋との五回試合
 オーシャンには加藤(旧姓横山)、笠島、橋本、久慈の早大旧選手あり、西村、伊豫田、伏見の幹部等特に厚意を垂れ、湯の川は海に面し、温泉湧き日々愉快に過した。太洋の一回戦は八月十三日柏野グランドに開かれ、最初谷口病後のため竹内が投球した。五回に危機が来て谷口が代わり、七八回各一点を獲て早大の勝利となる。太洋頗る好防した。
早大
太洋
RF 大  下 CF 加  藤
SS 久保田 2B 笠  島
1B 有  田 RF 瀧  澤
CF 田  中 C 久  慈
C 永  野 P 橋  本
P 竹  内 1B 北  條
3B 松  本 LF 瀧  野
2B 梅  川(函館商) SS 西  勝
LF 加  藤 3B 三田村
P 谷  口
 二回戦は同十五日、太洋力闘して六回まで早大を押し捲つたが、遂に望を達する事が出来なかつた。一回二死後久慈の猛ゴロ三塁打となり。太洋一点を先取し、早大は六回まで得点なく、七九に各一点を入れ、二対一惜しくも太洋敗る。
 三回戦は、二十日豪雨のため中止となり、二十二日、両軍五回まで得点なく、六回早大辛くも一点を入れ、一対零早大勝つ。
 四回戦は廿四日、七回雨のためコールドゲーム、六対二、五回戦は二十六日五対一太洋共に敗れて、早大の全勝に帰したが、太洋の強味は十分に発揮された。谷口と橋本とは年の差と練習の差を示したのみであった。久慈は流石に光つていた。かくて夏期練習の望を達し、北海の夏の涼しさを心ゆくまで味わつた一行は、帰途青森鉄腕、八戸中学、盛岡杜陵と試合つて、八月三十一日帰京した。杜陵の試合は七対一、湯の川滞在中、安部部長は北海講演の途、選手と共に三日間常盤木に同宿された。
【10.01.01アップ】

  ◇昭和7年1月1日、久慈運動具店の広告です(函館新聞


   本年も御引立御愛顧御願申上候

       久慈運動具店

        久  慈  次  郎

           函館市恵比須町  電話 1660 番

      支店  室蘭市幸町     電話  619 番



 ※当時は、室蘭にも支店があったんですね。
【09.12.20アップ】
 ◇どっちが本物の太洋か 実業団発足

昭和23年、オーシャンは分裂、一方が函館実業団として新たに発足していったのである。函館実業団の主要メンバーは、戦前からのオーシャンの選手。ファンの間からは、どちらが本物のオーシャンかわからないと皮肉まじりに言われたりもした。

昭和24年、正式にプロ入りを表明した佐藤、片岡に続いて、また新たに服部、山下のプロ野球チーム毎日オリオンズへの入団が決定。主力選手の退団が相次いだオーシャンは、さらに大浅、福田が次々と退出により、戦力的に著しくレベル・ダウンしてしまった。”オーシャン解散か”の声も聞かれるなか、ここに来てようやく函館実業団との和解、ふたたびひとつとなってチームをどうにか維持していったのである。(スコアボードが見ていた・・より)

 チーム内の不協和音から昭和23年2月に分裂したオーシャンは、翌24年、主力選手のプロ入りや企業チームへの流出が相次ぎ、名門オーシャンとしてチームの維持すら困難な状況となってきていた。この間、両チームの再合流に向けた関係者の努力が進められ、ようやく昭和25年3月、函館実業団と合流し新生オーシャンとして再スタートしたのである。
 
◇昭和23年2月18日 北海道新聞   
  函館実業野球メンバー

 函館市に新生した函館実業野球団の構成陣容は次の如く決定した
会長 森七郎(渡島集出荷組合常務理事)、主将 伏見滋夫、マネージャー 山辺繁樹、監督 小笠原竹次郎(立大)、△投 若山(中大)、滝野(函商) △捕 渡辺(多)(早大)、山村(明大) △一 飯田(早大)、伏見(達)(函商) △二 伊予田(函商)、山川(中大) △三 辻(函商) △遊 黒沢(函中) △外野 伏見(滋)(樽専)、山崎(光)(早大)、岡本(函商)、渡辺修(函中)、矢幅(函中)、能登谷(中大)、関谷(函商)
◇昭和23年2月29日 北海道新聞
  太洋の新陣容 今年の試合計画も決る

 春の野球シーズンのトップをかざる全国都市選抜野球大会(三月十九日から四日間、後楽園)に北日本代表として出場する函館太洋クラブは三月五日出発し七日から十八日まで戸塚球場で練習を続けこの間前橋の小口製作所ほか二、三チームと試合を行ったのち大会に臨むことになっているが、本年度の計画と新陣容がこのほど発表された
 入部新選手としては投手 服部(法政) 遊撃猪子(前南海、東邦商業)、外野 山下(法政)、大浅(東邦商業)の四名で、この大会から出場、地元での試合は五月一、二、三日間の豊岡物産を始めに左のチームと決定した。
 △試合 豊岡物産、愛知産業、全神戸、今泉産業、小口製作所、全桐生、藤倉、早大、明大、法政、山藤商店、東洋商業、下関大洋漁業、道内各チーム

△メンバー
 監督 町谷 助監督 永澤、主将 東島、副主将 山崎
◇マネージャー 相沢 (投)佐藤、福田、服部(法政) (捕)片岡(一)、山崎、猿田(二)、海野(三)、折田 (遊)東島、猪子 (外)明石、大浅、山下(法政)
◇昭和25年3月4日 函館新聞
  白紙合同に決定 問題のオーシャンと函實

 全市のファンから注目されていたオーシャンと函実の合同は、三日午後五時、地蔵町山崎氏宅で開かれた両チーム主脳部会談で白紙合同に話合いがつき、今シーズンから純正なノン・プロとして新出発する事になった
 この日、函実は函館球界のためオーシャン強化の為ならばと無条件協力を確認して全員がオーシャンクラブ員になることを申し出、オーシャンも函実と無条件合同を受諾、今後の方針、機構、役員の新選については、谷オーシャン理事長に一任決定することになった、なお、十日ごろまでには谷オーシャン、森函実両理事長会談が行われ正式決定の運びとなる
◇昭和25年3月5日 夕刊「はこだて」 (函館新聞)
  「新生太洋に望む」

 太洋と函実の合同が実現したのは函館球界の朗報である、このことのため何度も結びかかってはほぐれる糸を最後まではなさないで努力をした両者の幹部諸氏に改めて敬意を表したい、これからこの結んだ糸の固めを一層強くして、四十年の伝統と歴史をもつ太洋をしてより正しい強い、より良いノンプロ・チームに盛り上げるよう、新しいスタート・ラインから一路邁進してほしい、これが函館の野球ファンの大きい希望であり、また期待であるといっても言過ぎではないと思う
 紆余曲折を極めた合同決定までの経過をここで改めてさらってみても仕方はないが、昨夜の「決定するまで」のことについては今後どういう形で「新生太洋」が具体的に作られてゆくかということに重なっているのでいささかふれておきたい、昨三日夜の地蔵町山崎英三氏宅における太洋の理事会には、林、桑野、高山、高田、永沢、田辺、東島、折田、町谷、山崎の諸氏が出席していた、そこへ函実の渡辺、伏見の両氏が赴いて「函実の選手は全部部員にしてほしい、あとのことは一切白紙にして太洋側におまかせしたい」という意味の意向を述べた、函実の方がここまでくる間には帰函した森理事長から東京での谷太洋理事長との会見の内容もきかされ更にさきに太洋から提示された”練習生”云々の意味に誤解のあったこともよく分かっていたので選手会として一度は決定していた「拒否」をすてて万事を渡辺、伏見両氏に一任していたのである、また一方太洋の方でも合同論のきっかけを作った町谷総監督が東京から帰って以来、内部の空気緩和に努力していたし、折田、東島両氏も両チームの橋渡しに一生懸命になってもつれかかったよりを戻していた、したがって前記の意向を渡辺、伏見両氏から述べられた太洋は、これを直ちに議題として協議した結果、「前に出した四つの条件は白紙に返して、無条件で函実の意向を受け入れる」ことに異議なく決定、残る具体的なことは十日ころ帰函する谷理事長と森理事長との再度の会談によることにしたのである、これまでの太洋内部の空気からして二、三反対の意見も出るのではなかろうかと思われた不安も、折田、東島両氏の函実側との事前接捗、町谷氏の内部統一努力が功を奏して一掃され満場一致で「無条件合同」が実現した訳である、そこであとは両理事長の会談に問題が残されたということになるが、両理事長共に「お互いに愉快にやれるよう協力しよう、一緒になって部員が多くなればうまいものを第一線に出しあとの人もまたやるような方法をとろう」ということに一致しているので、この点の具体化さえまとまればほんとうに目出たし、目出度しになるのである
 現在太洋選手は十二、三名(新人も含めて)現函実選手は約二十名いるから合せて三十余名になる、三十余名で一チームという訳にはいかないからベスト・メンバーとして十五名位を選定し、あとは第二軍的チームを作り町谷総監督、折田第一軍監督の他にこの第二軍の監督も選任し永沢、東島両コーチをこれに綜合させるという形がとられるのではなかろうか、丁度いまの巨人軍のやっている形である、無論未だ分らない世界に属しているからどんなものになるか万事は谷理事長の方寸にあるが、折田、東島の諸氏もそのような気持でいると思われる節もあるので大体想像される、何れにしても合同を機会に、これまでの太洋にかうでい(拘泥)しないで名実共により良い太洋の出来上がることを切望したいものである、雪もとけて春の陽ざしがシーズン近しを思わせるとき、合同の朗報に対して函館の野球ファンは双手をあげて喜び迎えているに違いない =小島六郎= 

 (小島六郎氏 1900年新潟県生まれ、早稲田大学卒。都新聞、読売新聞などで記者生活を送り、終戦後、函館新聞専務取締役に就任。 ベースボールマガジン社重役などを歴職)

【09.11.02アップ】
 昭和6年、讀賣新聞社社長、正力松太郎の招きによりヤンキースのルー・ゲーリッグを含む全米大リーグ選抜軍が来日した。これを迎え撃つ全日本チームの主将兼捕手に太洋倶楽部の久慈次郎(早大)が選出された。
◇昭和6年10月6日 函館日日新聞

 全日本代表  投票結果 久慈選手第一位

【東京電話】
 わが野球界に一大センセーションをまき起こした全日本代表選手候補の投票は讀賣新聞の手によつて行われ全国のファンにより最高の十二万四千という驚異すべき得票を以て投手七名、捕手四名その他各三名合計三十八名の候補が左の如く確定したが、その内から更に投守(ママ)五名捕手三名その他二名の代表選手が十二名の銓衡委員の手によりて銓衡されたる結果は来る十日発表の予定である、右の代表選手はわが権威者として全日本の実力を代表する最高チームを形成し以て招聘さるるアメリカ代表チームに世界の注視下に雌雄を決するものでわが野球史上の一大盛観とされてゐる、投票開票結果左の如し
 △投手(七名)
  95,335票  伊達(早大)
  66,639   宮武(慶應)
  66,525   若林(法政)
  57,384   渡邉(明出)
  55,107   辻 (立教)
  54,556   鬼塚(明大)
  48,567   高橋(帝大)
△捕手(四名)
 124,836   久慈(早出)
  81,955   小川(慶應)
  70,038   伊丹(早出)
  68,591   井野川(明大)
 一塁手(三名)
  93,831   山下(慶出)
  82,770   松木(明大)
  69,434   伊達(早大)
 △二塁手(三名)
  89,033   吉相(明大)
  86,691   三原(早大)
  42,812   横川(明出)
 △三塁手(三名)
  98,513   佐伯(早大)
  88,570   角田(明大)
  79,169   水原(慶應)
 △遊撃手(三名)
  94,826   苅田(法政)
  92,717   富永(早大)
  64,075   林 (明出)
 △左翼手(三名)
  105,388   松井(明大)
  75,187   井川(慶應)
  55,358   賣藏(帝大)
 △中堅(三名)
  120,166  桝 (明大)
  76,192  田部(同 )
  65,750  楠見(慶大)
 △右翼手(三名)
  67,214 杉田屋(早大)
  64,302  堀 (慶應)
  62,544  永井(慶出)
 △ピンチヒッター(三名)
  85,788  佐藤(早大)
  66,476  渡邉(明出)
  53,686  森 (早大)
 △ピンチランナー(三名)
  98,881  田部(明大)
  97,786  齊籐(立出)
  48,936  佐伯(早大)         

 一代の名誉 久慈選手語る
 今朝讀賣新聞社からお知らせを受けたのですが自分としてもかかる多数の投票を頂いておるとは思つてもおりませんでした、しかし是からが厳重なる銓衡があるのですからそれにパスするかどうかと思つております、幸に自分がその正選手として入ることが出来ましたならば一代の名誉として充分に働いて見たいと思つておりますが、その銓衡を気にしてゐる次第です、しかし此最高点を私にいただかしめて下さつたファンの諸氏に対しここに厚く御礼申し上げます。 
◇昭和6年10月29日 函館日日新聞

 久慈選手 壮行会 三十日森屋にて

 米国職業野球チーム対全日本チーム戦に出場する久慈選手は来月一日出発する事は既報の如くであるが、是に先だつて市内五新聞及び二支局の各運動部主催の下に明三十日午後三時より森屋食堂に於いて壮行茶話会を開催する事となつたが、一般ファン多数の出席を希望する、尚会費五十銭当日持参の事
◇昭和6年10月31日 函館日日新聞

 代表日本軍の 名を辱めぬ 決意を語る久慈選手 昨夜の壮行茶話会

 既報市内五新聞社及二支局主催になる久慈選手壮行茶話会は昨三十日午後四時より末廣町森屋食堂に於いて開催されたるが出席者は、久慈選手、泉市議、伊豫田、西勝両太洋監督、谷、林、二階堂、渡邊、庭山、奥山、伊藤、川勝、大久保、山崎、竹村、山下、杉村、山野、渡部、大辻、能戸、桑名、山崎(善)、武山、工藤、長尾、松本、古谷、小杉、三浦、山崎(栄)、野口、能戸、高山、種田、遠藤、白瀬、大橋(讀賣)、長谷川函新社長、西勝、地谷、滝野、北条(函新)、中原(函毎)、江口(樽新)、吉田(民報)、山田(函日)等四十八名あり、一同着席後主催者側を代表して山田函日記者の辞、次いで長谷川函新社長より意義深き激励的の送辞を述ぶる処あり是に対し久慈選手は今回の上京に際しては充分なる活躍を以て代表日本軍としての名をはづかしめざる決意を述べて謝辞に代えたる後、西勝太洋監督の発声のもとに久慈選手のために乾杯する処あり久慈氏は再び立つて対米国チームにつき感想を述べたる後今回の日米両チームを中心として歓談に時をすごし非常なる盛会を極め一同久慈選手の健闘を祈り北條函新子の挨拶を以て散会したのは午後五時であつた。
 明夕出発す
 既報久慈選手は明一日午後五時半発連絡船にて出発する事となつたが着京後直ちに全日本チームの合宿所たる四谷区萬年ホテルに入る事となつている。
【09.10.24アップ】
 昭和7年、オーシャン倶楽部解散の危機についての記事がありました。
○昭和7年10月4日 函館新聞

昔日の面影なし  太洋倶楽部 近く解散か 餘りにも寂しき衰退の色
幹部協議を進む


 三十年の歴史を誇つて東北球界に君臨してゐた太洋倶楽部は大正十三年当時日本球界の最強チームと許された大毎軍と対抗し互角の試合をして満鐵チームと共に本邦三大倶楽部の名を揚げたのを頂点として逐年衰退の道をたどり一転して昭和四年更生の新チームを組織し現在に及んでゐるとは云え之また内外共に漸(ヨウヤ)く期待に反するものであつて連年出場の都市対抗戦には二陣に兵を進めるに至らず今や孤影悄然昔日の面影を失つて重大決意を要する最後的断崖を彷徨してゐる,事茲(ココ)に至つた原因は種々あり,且つ経済的に根拠を有せざるアマチユア・スポーツ団体として複雑なる周囲の状態にも深甚なる検討を要するもので現在の堕勢を以つてすれば早晩自滅の外なく識者後援者の最も遺憾とするところであるが,翻(ヒルガエ)つて日本球界から太洋倶楽部の名を抹消するには餘りに過去の存在的価値をおしまれるあつて茲に断乎その改造を目的とする解散論が擡頭(タイトウ)し真面目に研究されて来てゐる事は注目すべき現象であらう,之に関しては倶楽部現幹部も充分なる決心を以て調査し且つ又その手段方法をひそかに講ずるところあり近く疾風迅雷的に一大斧鍼が下され様とする空気が濃厚となりつつあるが,その時期は遅くも十一月初めには決定するらしく果たして如何なる変革がもたらさるるか刮目(カツモク)されてゐる。
【09.2.23アップ】
 昭和20年代の北海道新聞から,野球に関する記事を3点ばかり見つけました。
○昭和23年3月20日 北海道新聞

 近づいた野球シーズン
 道具一そろい五,六千円 店に出てるのは殆どバツト


 そろそろ野球シーズンが近づいて大小フアンが朝夕市内のグラウンドをにぎわすようになつたが,さて今年の野球用具の出回りと値段はどんなものか運動具店をのぞいてみた,店頭に飾られているのはほとんどバツト各種でこれは少年用七十五円から軟硬,上等なので百八十円程度,内地産はこれより四,五割上回つている,近く道庁から市や渡島,檜山地方の学校に振向けられるがグローブやミツト,ボールなどの公価が一月の物価庁制定でグローブ牛皮六百九十五円(昨年度に比べて約四倍の引上げ値)馬皮で五百六十五円,ミツト牛皮九百四十八円,ボール皮二百十一円,スパイク牛皮一千七十一円,そのほかユニホーム二千四,五百円程度ストツキング,帽子など,一式をそろえると五千円から六千円の値段となり新チームを組織すれば七,八万円は軽く飛ぶというわけ。
○昭和24年9月6日 北海道新聞

 インキ壺

△・・函館ではじめての女のプロ野球ブルーバード対メリーゴールド第一試合が五日午後四時から汐見グラウンドにものずきな男女フアン三千名ほどを集めてアダっぽいプレーの数々をみせた。
△・・球の動きを追っかけながらパーマのほつれやユニホームの汚れを気にする娘子両軍,試合が熱をおびてくれば果敢なすべり込みやバツトを折る強打者も出てスタンドのドギモを抜く。
△・・長々しい井戸端会議,かしましいベンチからの野次にはフアンも顔負けしたが青リボンのブルーバードがホームランをかっとばして涙ぐむあたりはやはりオンナ,結局試合は十一対四でブルーバードの勝となったが試合最中場内アナが東日本で太洋優勝の放送をすれば両軍しばし手を休め”函館は案外強いのネー”
○昭和27年6月15日 北海道新聞

 太洋OB うつちやり勝 チヨンマゲ軍と熱戦

 大相撲一行の余興として対太洋OBチームとの野球戦が昨十四日木戸打出し後市民グラウンドで賑やかに行われた。さすがのチヨンマゲ軍もこれだけは裸では都合が悪いとTH(照国,羽黒川チームの意味)のマークのお揃いのユニフオームに身を固め,芳ノ里−黒田山のバツテリーで堂々の布陣をひいたが,これに対するOB軍は山崎(英)−塩田のコンビ,かくして六回までは三対一と相撲軍がリードしてそのまま”よりきり”勝を思わせたが,OB軍最終回の攻撃に二走者を置いて滝野君の一打はセンターの大フライ,センター旭岩君不自由な身体?をやおら起して打球を追つたが土俵ならぬグラウンド中央に大きく転倒このためスリーランホーマーとなつてOB軍は四A対三で見事”打ちやり”勝となつた。この間北ノ洋の果敢なホームスチールに塩田捕手が突飛ばされる一幕や,二盗の小林老が二塁手平鹿川にハネ飛ばされる抱腹絶倒の場面などがあり,スタンドを埋めつくした観客の爆笑をかうなど和やかなうちにめでたく函館場所”野球版”を打ちあげた。

【09.2.7アップ】
 戦時色も濃くなってきた昭和15年,野球界においても敵国語である英語使用の禁止措置がとられるようになりました。
○昭和15年9月15日付け 函館新聞
 
 「英語,英字を廃す   職業野球も新体制」

 日本野球連盟では新体制に即応純然たる慰楽としてその行くべき道を確立すべく同連盟関係者であり新体制準備委員である有馬頼寧伯,正力松太郎両氏の意見を徴し数回に亘つて理事会を開催慎重協議の結果野球の純正日本化を図ることとなり新綱領を制定一切の英語英字の廃止等を決定十三日の理事会を経て左の如く決定したこれに依つて今迄見馴れていた華美な制服をはじめ英字のマークも姿を消し更に審判の宣言等も日本語に改められるので長年お馴染みのプレイボールも聞けぬ従来と変わつた純日本的野球競技がみられることとなつた

一,綱領の大要従来のファインプレーと野球世界選手権獲得の文字を廃除し「野球の日本化」「闊達 敢闘」「共同団結の理念」を原則とし最健全な恩楽とする内容に改正
一,一切の英語英字を廃す
 イ,制服の標識,国旗の標識を撤去して何れも日本字に改む
 ロ,試合中の選手審判その他の使用語は英語を止める
 ハ,国名英語を止め日本語とすべく善処する
 ニ,審判の宣告の日本語化は至急専門委員会で研究調査する 但し従来の「プレイボール(試合始め)」「タイム(試合停止)」「ゲームセット(試合終わり)」と云う程度は即時断行する
 ホ,リーグの字を廃し日本野球秋季戦の如き「戦」の字を使用する
一,華美な制服を廃す
一,野球規則を変更
 イ,引分試合を止め必ず勝負を決める
 ロ,准試合(コールドゲーム)は四回半であつたのが六回半に改正
一,野球用具の代用品研究会を創設
一,東洋民族以外の外人選手の採用を止める 但し,現在選手たる者は国籍を日本に移させ日本人名に変更させる
一,試合の字を仕合に改む


○函館太洋倶楽部と函館実業野球団の招待券
 (08.11.23up)

 昭和23年,組織内の不協和音からオーシャンクラブが分裂し,函館実業野球団が発足した。(昭和25年に再度,函館太洋倶楽部としてまとまる)その当時の両チームの野球試合の招待券。
(函館市白鳥町,為國幸一郎氏提供)
野球招待券のPDFはここをクリック
○函館市民運動場の平面図 (08.11.03up)

 昭和15年8月,故久慈次郎監督の設計による新しい市民運動場が完成しましたが,下図が全体の平面図です。右翼側の端に函館山からジャンプ出来るシャンツェ(スキーのジャンプ台)があることが分かります。久慈監督はスキーの名手でもありました。(1941年発行 函館公園観光之栞より)

函館太洋倶楽部野球場物語(野球場の変遷)

□ 明治40(1907)年、市内近郊の教育関係者(新任教師等)により函館太洋(オーシャン)倶楽部は誕生したが、同年8月に発生した大火により、この年の後半は活動らしいことは出来ず、翌、明治41(1908)年2月頃からは、雪中練習を開始した。当時はグランドが無く、5月頃から新川土手付近を練習場にしていた。結成2年後の明治42(1909)年、水や燃料補給のため函館に寄港した米国太平洋艦隊チームとの交歓試合は、函館中学校の運動場で行われている。明治43(1910)年に谷地頭運動場が完成、大正時代になり柏野運動場、昭和に入って湯の川運動場、汐見市民運動場、千代台公園野球場へと変遷を重ねている。
 年代や順序などがバラバラになりますが、当時の新聞記事等により、オーシャン倶楽部と使用球場のかかわりを紹介していきます。

□ 順序よく並んでいませんので、アップ日と丸文字数字(@など)を参考に新聞の日付の古い順に読んでください。

@ 明治43年に谷地頭運動場が完成していますが、それまでは函館中学校(現函館中部高校)のグランドで試合が行われています。ただし、新聞記事における記載は「千代ケ岱なる中学校運動場」、「千代ケ岱中学校グラウンド」、「千代ケ岱中学校校庭」などが多く、これは元町の船魂神社下にあった函館中学校(道路一つ下には函館商業学校があった)が明治39年1月に現在地(千代ケ岱辺り)に新築移転して来たことから、こう呼ばれていたものと思われます。なお、明治43年6月22日の函館日日新聞では、「谷地頭グラウンド」、同年9月11日の記事では、「谷地頭常設運動場」となっており、以後は「谷地のグラウンド」の表現が一般的となっています。
 函館中学の野球部は明治33年に誕生していますが、校地が狭かったため、野球の練習はもっぱら谷地頭の広場を利用しており、これらの広場が谷地頭運動場として整備されたものと思われます。(参考:函中野球部創部百周年記念誌)
【08.5.17アップ】
S 昭和26年7月5日 北海道新聞

 ○祝典試合を挙行 きょう千代ケ岱球場開き

 道南のスポーツ・センターを目指してその完成がまたれていた千代ケ岱球場の球場開きは,港まつりの四日目四日午前十一時から宗藤市長はじめ市内の各名士が多数参列して挙行。”スポーツこそ再建日本の原動力である”と宗藤市長のあいさつに続き小南工務部長から工事報告,田中知事代理板谷市体育協会理事長などの祝辞があつて閉式,午後一時からは市内高校太洋対青函局などの祝典試合が行われた。同球場は工事費二千四百七十余万円で総面積六千六百坪,収容人員一万七千二百名,センターライン三百七十フィート,左右両翼ライン三百フィートのダイヤモンドと扇型を併用した最新式のグラウンドである。

  昭和28年5月12日 北海道新聞

 ○さよなら! 市民球場 八幡宮神社前に代替グラウンド 春日中学敷地問題本決り

 函館球界の成長と歩みを一にしてきた市民球場がいよいよ姿を消すことになつた。函館八幡宮では九日,同神社前の空地を市民球場の代替グラウンドにしたいという市の申出に対し氏子役員会を開き協議した結果,やむを得ない事情によるものとの見地から申出に応ずることになつた。この決定は十二日朝,市に通達され市教委で十三日委員会を開き正式に決定する運びだが,昨夏以来もみにもんだ春日中学敷地問題もこれでようやくピリオドを打ち,北洋博も既定の構想に従い準備を進め得ることになるわけだが,同球場は昭和十年天皇陛下のご来函を機に市民の労働奉仕で完成して以来,永く市民に親しまれて来ただけに関係者から惜しまれている。なお,市教委では野球ファンの要望に応え校舎を現スタンド跡に建てるなどなるべく現グラウンドを広く残し,想い出を失わせぬよう建築にも考慮を払つている。


☆ 昭和28年5月12日付け北海道新聞の記事では,汐見市民球場の跡地が春日中学校の敷地に決まったとありますが,市民球場は昭和29年7月10日から8月31日まで開催された「北洋漁業再開記念北海道大博覧大会(北洋博)」の会場として五稜郭公園,函館公園とともに使用され,その後,昭和30年4月1日に北洋博のために建設された建物の一部を改修し潮見中学校として開校しています。春日町は,現在の住吉漁港前の青柳町35番から青柳町24番あたりまでの磯見通と春日通の沿線にあった歴史の古い町で,昭和40年6月に実施された住居表示に伴い,汐見町,相生町などと一緒に青柳町に併合されました。なお,代替グランドとなった現在の谷地頭グランドは,八幡坂下の伊藤の池を埋め立てて造成されたそうです。(参考文献: 瀬戸是清著 「函館西部 町物語」,函館市教育委員会編集 「戦後学校教育の五十年」)

☆ 昭和26年に完成した千代ケ岱球場(千代台公園野球場)も老朽化が進んだことから平成5年に取り壊され,平成6年に現在の「函館オーシャンスタジアム」が完成しています。なお,例年,オーシャン倶楽部の練習は,北斗市運動公園野球場と西桔梗野球場を中心に行っています。以上で,「函館太洋倶楽部野球場物語(野球場の変遷)」は終了いたします。
【08.5.1アップ】
R 終戦後,多くの市民の協力により復旧した汐見町の市民球場も本格的な試合を行うには手狭であったことから,昭和24年に制定された「緊急失業対策法」による失業対策事業として千代台町に新しい野球場を造ることになった。この新球場は、スタンドの鉄筋コンクリート擁壁や吊り下げ式のバックネット、スコアボード以外は全部失業対策事業による人力作業で、外野スタンドを作るためにトロッコを使って残土を積み上げるなど、最大時には一日500名もの人員を投入した大工事で、昭和24年(1949)に着工し26年(1951)に完成、立教大学時代の長嶋選手や杉浦投手などもここでプレーをしている。立大との試合は,こちら。

 昭和26年6月27日 北海道新聞

 ○千代ケ岱球場ほぼ完成 眼に鮮やかな緑一線

○ 工事予算一千百五十万円で失対事業として着工したのが昨年,完成はこの六月十五日ころの予定がノビノビになつて,ファンの気をもませている千代ケ岱新野球場はいよいよ七月四日の港まつり協賛グラウンド開きまでにはメインスタンドを除くほとんど全部の施設が出来上がり,市民にお目見えする段取りとなつた。
○ 工事の難関はメインスタンド。鉄筋二十四段組のうち七月一杯で下部の八段が完成するが(全部の完成は八月一杯)これが全部出来上がらないと折角のグラウンドも中心部がないのでちょっと味気なさを感じさせる。また,バックネットは吊下げ式,内野一万,外野七千の定員だが今年は内外野両席とも芝生で,グラウンドの広さは中堅三百九十フィート,左右両翼三百フィートというところ。
○ 電導式スイツチでストライク,ボール,あるいは得点などその都度現れるスピーデイな動きが今年見られないのもさびしいが,荒れた汐見町の市民グラウンドに代わる新球場なので内外野芝生からバツクスクリーンにかけた緑一線の美しさはファンの眼を十分楽しませてくれるだろう。 
【08.4.27アップ】
Q終戦から1年が明け,いよいよ本格的な野球シーズンを控え太洋クラブでは4月20日から市民運動場で練習を開始し,各選手は練習前後の半時間をグランド整備に当たることとした。しかし,観覧席等の設備の復旧については市の予算も目処がたたない状況にあった。

  昭和21年4月5日 北海道新聞

 ○太洋の新陣容 二十日から練習を開始

 函館太洋倶楽部では愈(いよい)よシーズンを目前に控えて二日理事並びに後援会有志による緊急会議を開催した結果,その陣容並びに実施具体策を左のように決定した。

@四月二十日より練習開始,各選手は練習前後の半時間をグランド整備に当たること。
A本年度確定陣容 監督 町谷(早大) 投手 ○山崎(英)(函商) ○佐藤(法政大) ○塩田(北海中) 捕手 ○田辺(函工) ○山村(明大) 一塁 ○永澤(巨人軍) ○猿田(北海中) 二塁 相澤(函師) ○伊豫田(函商) 三塁 ○折田(慶応商工) ○辻(函商) 遊撃 ○東島(早大) 外野 ○伏見(主将 小樽高商) 小川(中央大) ○山谷(法政大) 能登谷(中央大) 鈴木田(巨人軍) 山崎(光)(早大) ○四ツ谷(小樽高商) マネージャー 山辺(函中) (○印は新人選手並びに復員選手)
B本年度春季(五月以降)の招聘チーム左の如し  早大,慶大,法政大,セネタース,巨人軍,藤倉電線,東京瓦斯,川崎コロンビヤ,田村駒,東鉄,仙鉄,名古屋鉄,釜石,その他道内チーム
C太洋倶楽部後援会は戦時中,行事中絶の儘であつたところ今春より復活積極的に活躍することに決定。 


  昭和21年5月11日 北海道新聞

 ○市民運動場復旧費寄附募集

 太洋クラブでは復興最初の招聘チームとして既に旭鉄軍に招聘状を発して居り,来る二十五,六日頃には久し振りに函都ファンを心ゆくまで陶酔せしめる予定が組まれてゐる,これがため目下観覧席の建築,グランドの地ならし工事など市民運動場の整備に努力してゐるが何分にも資材その他の関係から急速なる復旧には幾多の困難が伴ひ更に市の予算面からしても殆ど不可能な情勢にあるので過般来,市当局と種々折衝を重ねつつあつた処,今回太洋クラブ谷理事長は登坂市長,山崎市会議長の協賛を得て「市民運動場緊急復旧資金寄附金募集」を行ひ廣く一般市民に理解ある援助を求めることになつた。
@寄附募集目標額は金拾萬円の予定
A寄附金は一口金壱百円で同一人で幾口でも申込が出来る
B寄附金はそのまま市へ提供するが,寄附者に対しては太洋倶楽部主催の各試合観覧に対し特別の優遇方法が講ぜられ希望により同倶楽部後援会の会員となり得る
C寄附募集締切は五月末日,但しその以前に予定額に達した場合は打切る
D寄附金は都合により後払いでも可  申込受付場所は相生町 臼木文蔵,鶴岡町 植田商店,千歳町 加賀谷組,松風町 森川組である 
【08.4.19アップ】
P 太平洋戦争中(昭和18年まで)も野球は続けられたが,連合軍の攻勢が強まった昭和19年から終戦までは太洋倶楽部も休止状態となった。昭和20年8月15日の終戦後,召集された選手たちも徐々に函館に戻り,また,野球の虫が騒ぎ始めてきた。当然,市民球場も使えるはずもなく,当面は函館中学校の校庭を使いながら,市民球場の復旧を待った。

 昭和20年10月12日 北海道新聞

 ○太洋紅白野球戦

 復員選手を迎へて更生の意気いよいよ盛んな太洋倶楽部では,十七日午後二時から庁立函中校庭で紅白野球戦を挙行し久方ぶりに溌剌としたバツトの快音を響かせることになつた。メンバーは次の通り。<紅軍>投 塩田, 捕 山村, 一 猿田, 二 相澤, 三 辻,遊 伊豫田,中 伏見,右 山崎,左 内山, <白軍>投 佐藤, 捕 永澤,一 四ツ谷,二 高橋, 三 岡本, 遊 東島, 中 山谷,右 能登谷,左 松岡  

 昭和20年10月19日 北海道新聞

 ○太洋初の紅白戦

 復員選手多数迎え更生の意気盛んな函館オーシャン倶楽部では十七日午後三時半から秋晴れに恵まれた庁立函館中学グランドに終戦後初の紅白野球試合を開き谷理事長の始球式に始まつた試合は連続するファインプレーとバットの快音に三千余の野球ファンを喜ばせ三時五十分六−五のスコアをもつて白軍の勝利となつた。

  昭和21年1月7日 北海道新聞

○スポーツ界に再建の気運 明朗活発に展開 体育会函館支部に聴く

◇野球 町谷長市氏(日魯)
 資材は多少手持ちがあり優秀な選手も相当復員してゐるので本年は戦争前の華々しい試合が見られるのではないかと思ふ。市民球場の復旧を市に願ってるので融雪を待つて活発にやりたいと思つてゐる。食糧事情などから本年の上半期は暗くとも下半期は大いに明朗化されるものと期待してゐるし中等学校あたりでも大いにハリキツてゐるようであるので野球界は再建されると思ふ。中等学校ばかりでなく先ずその素地をつくる意味からも本年は国民学校の方へも呼びかけて見ようと思つてゐる。特に進駐軍などを迎えて恥ずかしからぬ競技を進めアメリカの国技といはれる野球を健全育成し体錬と慰安に供したい。
【08.4.12アップ】
O 平成11年12月末には新市民球場を現在の函館市立潮見中学校のグランドの場所に建設することを決定したものの,市民球場が完成したのは,球場建設に奔走した久慈次郎が球禍により死去した翌年の昭和15年8月であった。

  昭和15年8月25日 函館新聞

 ○故久慈氏の冥福を祈る 24日新球場に厳かな追悼会

 太洋故久慈監督の追悼試合はオール旭川軍を招じて二回戦を行うが24日午後3時これに先立つて新グランドで函館八幡宮三上主典司祭の下に追悼会が厳かに行われた。中央には故久慈監督のユニホーム姿の写真を花輪もて囲んだ祭壇を設け太洋クラブ選手と旭川軍がホームプレートを前に整列,先輩団及び市有志は左側に遺族席の後に続き棒二森屋のブラスバンドの奏楽裡に先ず三上主典の祝詞に次いで谷太洋理事長の追悼文朗読,かよ子未亡人の玉串奉奠に引き続いて太洋クラブ,函館市長,後援会,旭川代表,一般参会者代表が交々玉串を奉奠して式を終えたが故久慈君を再びここに起たしめたいと観衆は静かに冥福をいのつた。

<悼辞>

 故久慈次郎君の霊に捧ぐ 君昨夏太洋倶楽部監督として札幌に遠征し外苑球場に殪(たお)れて又起つ能わず,球歴三十年年樹盡不惑幾多の春秋を残して忽焉と逝く嗚呼 君学業を終ふるや居を函館市にし太洋倶楽部発展のために精魂を傾け万人に卓越せる人格と不世出の球技を以て多事多難の時代に処し倶楽部をして今日の大をなさしむると共に,その明朗公正なるスポーツマンシツプは青少年の師表として全市民敬慕の的となる,今や君が努力せられたる行幸記念運動場は君が理想の体型に於いて完成し太洋倶楽部亦,今春画期的陣容整備を断行し良く君が意志を継ぎて総力総親和,以て本道球界のために活躍すると共に聖戦下国民体育の向上指導に力を致しつつあり 君逝いで當に一周年茲に君が設計せられたる眺望絶佳のグラウンドに祭壇を築き君が訓育せられたる百切練磨の妙技を盡(つく)して以て贐せんとす,希くは莞爾(かんじ)として来り饗けよ聊(いささか)か述べて追悼の辞となす        函館太洋倶楽部理事長 谷 脩治 
【08.3.30アップ】

N平成11年4月の市議会補欠選挙で当選した函館オーシャンの久慈次郎選手は,多くの市民のバックアップを受け,新球場建設のために力を尽くしてきました。この年の12月新球場の建設計画が現実化し,その設計を「久慈議員」が担当することになりました。

 昭和11年12月24日 函館新聞

 ○聖恩を記念する 運動場を建設 けふ委員会を開く
 
 函館市における行幸記念事業は既報の如く過般の議員協議会において函館市に対する御下賜金五百円を基金とし,他は一般より寄付を仰ぎ旧裁判所跡に理想的綜合グラウンドを建設し一般市民の輿望にこたえることに決定。これが立案を十一名の委員に付託したが同委員会は今廿三日午後二時より市役所に開催議員にして斯道の専門家たる久慈次郎君の手に成る設計案を基礎として協議をとげたが右によると総坪数六千八百坪に対し約三万二千円の経費を投じ,観覧者収容数三千五百から五千名に及ぶ野球グラウンド、テニスコートおよび各中小学校の運動会場をも具備した理想的綜合グラウンド案であり,これが寄付募集その他については慎重研究の上廿四日市会開会前の協議会に報告承認を求め実行に移る予定で,今後の技術的方面には久慈議員が極力当たり聖恩を永古に記念するにたる名実ともに模範的運動場を建設するもので一般市民はこれが実現に期待されるところ大きい,しかしてその施設の内容は野球にあってはホームを元弁護士控所付近跡の位置とし木造観覧席を周囲に造成して観覧に便にするものである。
【08.3.23アップ】
M昭和9年,10年と日米野球や巨人軍との試合を湯の川球場で行っては来たものの,交通の便の関係もあり函館の市内で野球を観戦したい,新しい球場が欲しいとの声が日増しに多くなってきました。丁度,昭和11年の4月に函館市議会の補欠選挙があり,この際,オーシャン倶楽部の久慈選手を市議会に送り込み,市民球場の建設に一役買ってもらうことに決まりました。

☆昭和11年4月18日、函館市会議員の補欠選挙が行われた。5名の当選枠に9名が立候補,その一人として太洋倶楽部の久慈次郎も出馬。演説会などほとんど選挙活動もしないまま3位での当選となり、その後の市民球場の建設に大いに貢献した。その辺りの新聞記事を紹介します。

 昭和11年4月13日 函館新聞(夕刊)

 ○立候補者出揃ひ 愈々血戦始まる 栄冠は果たして誰の頭上に 市議補選の下馬評

<久慈次郎君> 
 野球人として君は余りにも有名である、突然の出馬に各方面のセンセイションを巻き起こしたも宣なりであり異色久慈としてまた異色久慈として,はたまた新人として変わり種の一人。政治は一年生だというが、多年一軍を叱咤した経験からせば市政にまた容易にキャッチし得るであろう,推薦者は木内スケート部長、選挙事務長は市議の田代君である,これ等間も互いにサイン慎重、他候補を三振に打ちとることも容易であろうという。

 昭和11年4月20日 函館新聞(夕刊)
○けふ(今日)市議補選の開票

<開票結果成績>
当選 1,983点 寺尾庄蔵
当選 1,815点 長岡清三郎
当選 1,789点 久慈次郎
当選 1,679点 岡田幸助
当選 1,358点 美坂熊次郎
【08.3.15アップ】 

L対巨人戦の試合経過と寸評をアップしました。(当時の函館新聞より)

チーム
巨 人 軍 
函館太洋

▲第一回(巨)矢島曲球を見送って三振,水原四球に出て苅田の遊葡に封殺,苅田二盗,新富の四球が投手暴投となって二塁に進む,その間苅田生還,永澤の二軟葡を一塁に悪投してニ進,その間新富生還,津田三塁間を抜いて永澤三進,津田の二盗の時永澤本塁をついてタッチアウト。(太)柳澤遊撃頭上にクリーンヒット,伏見三振の時二盗に成功,村松の投葡に柳澤三塁に刺され,植田三葡。
▲第二回(巨)江口左中間安打に出て内堀の三塁バンドに二進,青柴一飛後矢島の二葡を野手弾いて江口二塁から還り,矢島二盗,水原の四球後苅田左飛。(太)山崎弟三塁越しの安打に出て,菅原に送られ山崎兄の三遊間安打に三進,続いて山崎兄二盗,久慈捕邪,飛山田三振。
▲第三回(巨)新富三葡,永澤遊葡,津田捕飛。(太)柳澤左飛,伏見一邪飛,村松二葡。
▲第四回(巨)江口,内堀ともに中飛,ピンチ打者山本左飛。(太)(青柴退きスタルヒン投手)植田,山崎弟,菅原三者三振。
▲第五回(巨)矢島三塁線のバンドを一塁失し,水原の一塁犠打に送られ苅田左飛,新富打者のとき矢島三盗成らず。(太)山崎兄一葡高投に生き,久慈打者のとき一二塁に挟殺,久慈投葡,山田二飛。
▲第六回(巨)新富右飛,永澤遊飛,津田の三葡は一塁へ暴投して二塁を占め,続いて三盗,江口打者のとき捕失に生還,江口一飛。(太)(内堀退いて中山捕手)柳澤三失に生き投手牽制悪球に一塁失して一挙三進,伏見とのスクイズ成らず三本間挟殺,伏見四球に出たが村松二飛,植田遊直。
▲第七回(巨)中山中前安打,スタルヒンの捕前軟打に二封,矢島の二葡にスタルヒン二封,水原左安,苅田打者の時投手悪投に二者進塁,苅田の投手ワンバンドをはぢいて矢島還り苅田二盗の際に水原生還,新富遊飛。(太)(スタルヒン,新富退き,澤村投手,畑福右翼)山崎弟中飛,菅原三振,山崎兄二葡。
▲第八回(巨)永澤中堅越え二塁打,津田遊直,江口投葡,中山中前安打で永澤三進,中山二盗成つて澤村左翼二塁打で二者生還,矢島二葡失に澤村三進,矢島二盗,水原三葡。(太)久慈,山田,三振,柳澤一葡。
▲第九回(巨)苅田右飛,畑福二葡,永澤左飛。(太)伏見,村松,遊撃内安に太洋初めてチャンスを迎えたが植田三振,山崎弟の二葡に村松と重殺を喫す。
<ネット裏>帰朝後の初戦で巨人軍がどんな新しい戦術を見せてくれるかは全國ファンの待望してゐるところ・・・・その劈頭戦を函館に迎えたのは非常に意義深い,従って勝負そのものはむしろ第二義的のもので運用の妙味や攻守の巧緻,眞に我が球界の最高レベルを体得した巨人軍の姿に接することに興味を覚える。惜しいことに二回目頃からの降雨でその全的技術の見ることが出来なかったけれども澤村,スタルヒン,青柴のピッチングスタッフ,苅田,水原,永澤の名トリオ,ゆるみない打陣等々・・・太洋の善戦を称するとともに第一戦は一寸ものたりない感ないでもなかつた。
【08.3.14アップ】

K 昭和9年11月8日、改装なった函館湯の川球場で、日米野球の第二戦が行われ、5対2で全米軍が勝利。バッテリーは、全米軍が、ゴーメッツ−ヘイズ。全日本軍が、青柴−久慈、井野川 であった。

☆ この年の日米戦が終了した12月末、「大日本東京野球倶楽部」が設立され、翌,昭和10年2月から4ヶ月におよぶアメリカ遠征を行うが、遠征先である米国において,チーム名があまりにも日本的でアメリカ人にはピンとこないとのことから、急遽「東京ジャイアンツ」と名付けられ,「巨人軍」となったもの。オーシャン倶楽部からは,永澤富士雄が入部している。

☆ 遠征から帰国した巨人軍は国内試合に備えトレーニングに励んだものの、野球統制令のため学生チームとの試合が禁じられており,このため社会人チームを相手に全国を回るスケジュールが組まれ、昭和10年9月6日、青森。翌7日には津軽海峡を渡りオーシャン倶楽部と対戦、その後、10日には札幌円山球場で全札鉄と対戦している。

 昭和10年9月8日 函館新聞

 ○ 0−8 太洋敗る 対巨人軍野球
(要約版)
 東京巨人軍対函館太洋の第一回試合は七日午後一時四十分から湯の川球場で巨人軍の先攻で開始、結局八対〇で巨人軍が大勝した。閉戦五時十五分。(試合時間が長いのは、二回頃より降雨があったため)

☆何と言ってもこの試合ですごいのは、巨人の投手陣、先発が「青柴」、リリーフが「スタルヒン」と「澤村栄治」という豪華版でした。
 
打順 巨人軍
打順 太 洋
矢島粂安 柳澤孝次
水原 茂 伏見滋夫
苅田久徳 村松市郎
新富卯三郎 植田 稔

畑福俊英 山崎光次郎
永澤富士雄 菅原茂夫
津田四郎 山崎英三
江口行雄 久慈次郎
内堀 保 山田三郎

中山 武









青柴憲一










ビクトル・スタルヒン










澤村栄治










PH 山本栄一郎









二塁打 永澤,澤村 36
29

【08.3.13アップ】

H 昭和3年,柏野球場敷地の借用期間満了に伴い,湯の川村が村を挙げてオーシャン倶楽部のために新球場を築造したものの,オーシャン倶楽部は,交通の便の悪さから翌,昭和4年春には元々球場のあった谷地頭の手直し作業を行い,以後,昭和5年から8年までのシーズンをこの谷地頭球場をホームグラウンドとして練習や試合を行ってきました。(F、G参照)

☆ ところが昭和9年3月21日の午後6時53分頃,春の嵐が吹き荒れる中,谷地頭球場にほど近い住吉町から出火し,焼失戸数24,186戸,死者2,166人,行方不明662人,市内の3分の1を焼き尽くすという未曾有の災害となった函館大火により,市民はもとよりオーシャンの選手のほとんども家や野球道具を失い、また、谷地頭球場も焼け出された人々のための仮設住宅の建設用地に使用されることになりました。オーシャン倶楽部としても荒れ野と化した街の復興を前に野球など出来る状態ではなく、この年の都市対抗を辞退。しかし,街の再建が進む中,野球にかける情熱はいっこうに衰えることなく,6月には選手会が開催されています。

 昭和9年6月13日 函館新聞

 ○太洋倶楽部 更生の意気 昨夜選手会を開催 力強いスタート

 太洋倶楽部が復興の意気で再び更生するという快適のニュースがうまれた。大火災の影響でいろいろな波動を生んであらゆる事業,スポーツ娯楽のうちで最もファンにおなじみ深いベースボールが或いは再起の望みがないかと心配されたが十一日の午後七時から久慈主将の下で本年第一回の選手大会を開き「古い歴史と伝統をもつ太洋倶楽部の復興」を協議した。さいわい黄金時代の名二塁手であった笠島友次郎氏が仕事の都合上在函することになって一段の活気を呼び本年は久慈主将,笠川副将が業務上繁忙なため一切を笠島,梅川氏に依嘱し,高山,永澤二元老が起って後進を指導することと決定したがメンバーは,投手 奥野,植田,瀧野,捕手 久慈,上野,一塁 永澤,二塁 柳澤,三塁 飯田,高山,遊撃 伊豫田,外野手 笠川,山田,高山となり本年は,七月中旬に札鉄を招聘して商業学校グラウンドでオープンベースボールを行い意義深い更生の第一歩を進めるのと八月七日に青森,小樽へ遠征することを可決,従って今年は部内統制と更生の基礎強化を目標にする筈で東京日々新聞社から練習費の寄贈を申し受けることとなったが都市対抗戦は本年は遠慮し明年札幌で地方大会予選をやって優勝チームが太洋にチャレンヂする優先権を承認させたものであった。最後にグラウンド新設で此の機会に当局に建設することを申し合わせたが連日の練習は商中工三校グラウンドで毎日午後五時から開始するというから久しぶりにこころよい明朗なスポーツを満喫出来る訳である。


I 夏も過ぎ、少しずつ街の再建が進んで来た頃、そこへ日米野球大会の函館開催の打診が舞い込んできました。

 昭和9年9月19日 函館新聞

 ○「全米野球団の招聘(しょうへい)は如何です」 読売から太洋倶楽部へ交渉 総経費約一萬円

 今秋十一月初旬に来朝する米国プロフエショナル・ベースボール・チームは,名実共に天下の壮観で,現在世界の球界に君臨するナンバーワンのみを集め所謂(いわゆる)アメリカンリーグとナショナルリーグからピックアップした全米野球団であるだけ,本邦球界にとって画期的な壮挙であると評判と期待がもたれてゐる。此の全米チームを函館へ招聘したいと云う計画が目下太洋クラブを中心に有力ファンの間に計画されてゐるが其の全国試合権を握ってゐる同業読売新聞社の市岡運動部長から正式に久慈主将,並に笠島先輩の手許に申し込んで来て居り,或いは契約金の如何によっては実現しないものでもないだけに非常の興味をそそってゐる。即(すなわ)ち全米チームは三大ホームラン王として全世界におなじみのベーブルース,フォックス,ゲーリックを始め先年来朝したスモークボールの所有者グローブに輪をかけた様な恐らく今後再び出現しまいと云われてゐるパレットボール(弾丸)で有名なゴーメッツ投手,サウスポーであるホワイトヒル投手等,名だたる名手ぞろいで是等の球豪に接するだけでも前代未聞の快事であり,前橋,仙台を経て来てもよいと云うのである。只ギャランテーと湯の川グラウンド使用の場合その修理等で約一万円の金が必要であり之に対し入場料はどう見積もっても三千円乃至(ないし)四千円を出でまいから他の六千円を市の理解ある後援者の寄附にまたねばならない結果となってゐるので此の復興途上にある函館市が果たして之れだけの寛度あるかどうかが結局招聘出来るか出来ないかのわかれ目となるのであるが,此の千載一遇のチャンスに米国へゆかねば見れない此の大野球団は,なんとかして招聘したいものと目下太洋クラブの最高幹部で善後策を練ってゐるから,ここ数週間には何れとも是非が決定されるであろうけれども此の一大快挙は再び来る事がないから天候のゆする限り北海道球界の為め実現する事を望んでゐる向きが多い。

J
 昭和9年9月23日 函館新聞 

○全米野球団の招聘に全力傾注 ファン諸君の応援を切望 太洋倶楽部幹部談

 既報全米職業野球団選抜チーム既に全日本野球団招聘に関しこれが主唱団体たる太洋クラブではギャランテー,運動場設備費その他諸経費等合計一万四千余円を要するので,この経費捻出のために悩みの状態にあったが過日この計画を発表,一般ファンに訴えたところ反響意外に大きく前売券の申し込み数々あり,これに自信を得た太洋クラブでは来る二十五日より十月五日まで十日間指定席券金三円也を前売りし,その成績如何によって開催か否かを決定することにクラブの意見が一致した模様で右につき一幹部語る「前売りの発売期間にギャランテーの八掛け約八千円を前売し大体収支のバランスが取れると見越しが付けばグランドの設備に取掛かる予定です、クラブとしてやる事業ですから欠損を見越しての仕事は出来ません、予定の売り上げを見ないときには残念ながらこの画期的事業も中止の運命に帰着するかも知れませんから出来得る限り前売券の利用をファンの方々に御願いする次第です。何とかして此の計画を画餅(がべい)に終わらせたくないと思ってをります」と、ちなみに人員収容の関係上、右の両スタンドは全部指定席となる模様で,この前売券を逸すると外野券で見物するの不自由を忍ばなければなるまいとのことです、最初前売券は五円との説も有力でありましたが多くの人に見て頂くと云う立前から三円にしたのでありますから,これ丈け会員を多く募らなければなりません。勿論クラブとしても全員を挙げて努力致すがファンの諸氏も一人でも多く勧誘して下されば,それ丈け此の事業の実現に近づくことになるのですから,この点もファン諸氏自身の為に御願いする次第です。
【08.03.06アップ】  
F 湯の川球場は造られたものの、交通の便が悪いとのことからオーシャン倶楽部は、谷地頭球場をまたホームグランドにしようと改修工事を行い始めました。

 昭和4年3月19日 函館新聞

 ○野球場移転で 湯川村大憤慨 「与論に従う外方法なし」と 太洋せつせつと谷地頭改造

 球場の遠きと不便に累せられて野球熱の沈滞せんことと憂え、太洋倶楽部が揺籃の地たる谷地球場を改築せんと企図し、既に地盛り用土砂を運び込んでいることは既報したが、右につき湯の川村では数千金を投じた球場を僅か一時間の使用で放棄されては一大事といふので過般、期成同盟常設委員会を開き、種々対策を講ずる処あり。結局太洋倶楽部に対し、使用方を希望することとなったが、太洋倶楽部では種々研究しての結果、谷地球場使用を企図したもので、今更改築を中止することも至難なるべく、中に水電会社も介在し近く一悶着は免れざる形勢にある。尚、太洋倶楽部が谷地球場を使用と決定せば、場内を取擴げる関係上ホームを現在のレフト側へ移動し道路四間を距ててスタンドをまわし、狭いながら理想に近きものを造る筈であると、移転問題に就き某幹部は語る。移転は与論の然らしむる処、今更なん共致し方がないが谷地頭を修理したからとて湯の川球場を絶対使用せぬという事はない。函館の体育の為精進する太洋倶楽部であれば函館のファンの与論に従うは当然で、万やむを得ない処である。何れ二三日中に幹部会を開催、紛糾の種一切を解決する予定であるが、谷地球場の改造を中止するが如き事は絶対にない云々


G
 昭和4年5月8日 函館新聞

 ○太洋の練習で谷地球場賑わう 新監督新選手の意気 〜天をつく概あり〜

 改造された太洋は揺籃の地”谷地球場”で数年振りの猛練習を続くる太洋倶楽部、内部の不統一を嘆じて太洋第二次黄金時代を形成せんと重任を担って起った伊豫田・加藤両監督の叱咤激励に宛然学校選手の如き整然さを見せてゐる快き練習。未完成グランドのぼさぼさも物ともせず町谷、永澤、種田等の諸選手始め新監督が立直しの第一方針として養成せんとする見知らぬ若い選手等の活躍もスタンド雀を喜ばす一つだ。久慈主将の意気頗る軒昂、懐かしき谷地球場に思い出をたどらんとしてか梅川、西勝等の先輩も姿を見せて、言いしれぬ気強さを見せてゐる。グラウンドの完成も近し、土もりさえ出来れば自由にかつ飛ばすというベーブ永澤の気焔萬丈、暖かさが増す毎にスタンドの御客さんもふえて十年前の谷地頭に立ちかえった観があり改造の太洋前途頗る多幸である。   
【08.3.5アップ】
D
 昭和3年3月29日 函館新聞

 ○湯川野球場 愈々(いよいよ)工事に着手  村役場内に事務所を設け  各委員を挙げて

 柏野運動場移転問題は、太洋倶楽部選手会で湯の川移転に決定したるが、既に融雪せる今日、愈々野球場設置に着手するの期となったので26日夜、同村料理店組合事務所に於いて辻松村長、岡田地方費森林事務所長、小林湯の川小学校長、各団体長、村会議員有志参集し、工事着手準備の為め従来の実行委員を含む大掛かりの準備委員を挙ぐるに決し、辻松村長を会長とする湯の川野球場改設期成会を設け事務所を湯の川役場に置き、辻松村長の外、鈴木助役、芳賀収入役、主として事務を鞅掌するに決定して午後11時散会し、更に27日午前10時より村役場に於いて指命委員参集し左の諸氏を委員に嘱託した。28日午後6時より同村役場に於いて全員参集して工事着手の実行と事務分業を定めて着手するに決定した。
 △湯川野球場改設期成会
 △会長 辻松新左衛門 (以下省略)

E
 昭和3年6月5日 函館新聞

 ○新運動場は一般に開放 団体競技などには大いに利用して貰いたい

 柏野運動場は改設を期として挙村一致で湯川村内に引き寄せて新運動場を設けたが、之に就いて辻松湯川村長は・・・挙村一致で新運動場を作ったが、この運動場の使用に就いては太洋倶楽部の野球には特に優先権を与えて利用せしめて居るが、日々使用するものでないから更に全市中等学校、女学校、小学校、聯合青年団その他の運動団体は務めて使用して頂くことを希望する。使用するからとて料金などは決して要らない。勝手に使用し大いに利用することを切望する。
【08.3.2アップ】
B
 大正10年6月20日 函館新聞

 ○柏野の新グランドに 太洋と全函館軍  第一回の練習試合 早大と法政の来襲も日取り  愈々(いよいよ)決定す

  太洋倶楽部対全函館軍の第一回練習試合は、柏野の新グラウンドに於いて三時四十分より開始された。初見参の新運動場は函館水電会社が約一万円を投じて設備したもので地味と云い置位と云い申し分がない。殊に臥牛山を遠景に見せたのは風光の点から見ても頗(すこぶ)る優れたものだ。スタンドは未だ完成してはなかったが、一塁側から本塁側と三塁側の三ケ所に分かれて十五間の長さに十一階と云う素晴らしいもの、殊に背後から昇降し得るのが気が利いてゐる。総坪数は一万二千坪と註せられて、本塁から右翼側の堤防まで優に七十五間はあるとの事で、本塁打は幾何(いくら)でも掻つ飛ばせます・・・・とは誰やらの言葉。軈(やが)て初見参の終わる頃太洋対全函館軍 試合の幕は開かれた、全函館軍の先攻で関口(球)、山本(塁)両氏復審、全函館軍先ず永岡二匍の失に出て、西勝二塁打を飛ばして永岡生還、次いで岩清水の二塁打に西勝還り、瀧澤のバンド岩清水生還して劈頭(へきとう)に先ず三点を獲って大いに気勢を挙げたるも後続なくして止み、七回の表迄得点もなく陣容を替わる事三度び、遂に凡打無為に終われり、之に反して太洋軍は第一回に快漢北條、本塁打を掻つ飛ばして伊豫田と共に一点二点を占め、次いで笠島、橋本、伏見等、踵を連らねて還り先ず五点を奪って意気を見せる。斯(か)くて太洋軍は二回の裏に西勝、北條、伏見の三者又生還して総攻撃の開始となり、四回に一点、五回に四点、七回に一点、八回に三点合計十七点を入れて凱歌を挙げ、全函館軍は八回に二点を奪い九回に最後の一撃を加えて再び二点を入れ茲(ここ)に十七A対八の成績を残したるは是非もなし。
 
チーム
全函館軍
函館太洋 × 17

 同年、柏野新球場では、7月に早大二軍、法大とのリーグ戦を。翌大正11年には早大から久慈次郎も入部し、西日本の強豪、大毎チームを2勝1敗と撃破し函館オーシャンの名を全国に知らしめた。その後、同球場では、大正12年に幻のプロ球団と言われた「日本運動協会」と、大正13年と15年には大毎チームとの再戦が行われている。

C 昭和2年7月12日 函館新聞

 柏野球場を移転の説 湯川では発展策の一として一万坪の土地を提供せん

 東北一をほこり全国的に名を知られた柏野グランドの土地借用期間は競馬倶楽部より本年11月限りで、明年は何処へ移転すべきかが問題視されている処だが、今度、湯の川の有志間に同村(湯川村)発展策の一つとしてグランドの新設を計画、同村内に一万坪の土地を提供せんとする説が持ち上がっている。設備その他は水電会社(現北海道電力)へ交渉して・・・とのことだが水電では、まだそんな交渉は受けて居らぬが、会社としては太洋倶楽部の意志も確かめた上でなければ何とも返事は出来ぬ。但し現在グランドの借地期限については、あれだけの設備もしてある事故(ことゆえ)一年位の延期は願うつもりであり、従って移転地その他についてまだ何も考えては居らぬ。と語っていた。
【08.2.23アップ】  
A 谷地頭球場が狭いことからオーシャン倶楽部では、水電会社に新球場の新設をお願いしてきましたが、ついに現実になりそうになってきました。

  大正10年5月17日 函館新聞

 ○柏野競馬場隣地に 理想的運動場を 太洋幹部に一任して 水電会社で新設する

 函館水電株式会社(今の北海道電力)が太洋倶楽部の懇請を容れて愈々(いよいよ)柏野競馬場隣地に理想的大グラウンドを新設する事になったので、十六日午後六時からビルデング内五島軒で、平野水電専務、太洋最高幹部出席の下に其の披露があつた。席上で太洋の西村監督は語る、「現在の谷地頭グラウンドは余りに狭隘で、且つ又地質から云っても甚だ貧弱である。為に我々は理想的大グラウンドを設備すべく種々奔走中であったが資金の関係上容易に実現を見るに至らなかつた、然るに今回、水電会社で愈々理想的大グラウンドを新設するに至ったのは、独り太洋倶楽部のみならず函館の運動界の為に甚だ慶賀すべき事である」云々と。
 之に対して平野水電専務は曰く、今回グラウンドを新設するに至ったは会社の繁栄策のみならず大都市として理想的グラウンドのないのは甚だ遺憾であると云うので、我々としては独り野球のみならず各種の運動にも適応するよう太洋幹部に設計を一任し居るが、当該グラウンドは競馬場の直隣地で競馬会の武富氏等の好意に依って土地を借り得たもので設計等は左の如きである。
 敷地は 一万坪 スタンドは十一階 
三ケ所、婦人席も設備する。競馬場隣地で電車線路から約七十間もあろうか、風景と云え地質と云えグラウンドとしては申し分なく、約一万坪の宏大な敷地である丈けに設備も充分出来る。
 「観覧席は、全部十一階として本塁側から一塁及び三塁側のは十五間、他は十一間としてあるから優に二千人の観衆を入場せしめ得るし又婦人席をも設備する筈である。又観覧席の前は地下から三尺として後方から昇降し得る設備となってゐる。又固定ネットも十五間と して決して危険のないように充分設計してあるが、目下工事に着手中であるから竣成は多分七月上旬頃であろう。丁度其の頃には法政軍や早大が遠征して来る筈であるから開場式も其の時分であろう」云々と伊豫田氏は語られた。

◎ 昭和5年8月に行われた帝國大学との試合の新聞記事(平成20年2月3日アップ)  
 昭和5年8月、函館太洋倶楽部と帝國大学(現東京大学)との試合が開催されました。その第一戦目を8月23日の函館毎日新聞から紹介します。


 3−1  太洋快勝 帝大の打撃完封さる

  太洋対帝大一回戦は、二十二日午後四時十五分より谷地頭運動場に於いて開催した。空は曇つてゐるが風穏やかにおあつらひむきの天候で観衆相当多い審判秩父(球)、内山(一)、前田(三)三氏。太洋先攻で開始。
チーム
太洋
帝大

▲第一回 太洋笠川二匍、一塁手足を離したためセーフとなる。種田の投バンド一塁手失して生き、築地のバンドに進む。久慈の絶好のバンドに笠川還り、遠藤中堅に痛打して三塁打となり、種田生還、森二匍に止む。帝大三者凡退。

▲第二回 太洋二死後坂田二匍失に出塁したが二盗して刺さる。帝大無為。

▲第三回 太洋凡退。帝大一死後高橋投匍悪投に生き、島浦中前安打と中堅のファンブルに走者一挙二三塁に進む。福澤遊越テキサスに高橋生還したが、島浦三塁を衝いてささる。小宮三振。

▲第四回 太洋三者凡退。帝大田中四球、田村の犠打に進み、小林四球に帝大のチャンス来たが、井上投匍に田中封殺。内山遊匍に井上封殺さる。

▲第五回 太洋二死後坂田三匍失に出たが二盗してささる。帝大高橋投匍失に出で、島浦の犠打に進んだが、福澤右飛。小宮四球、田中中飛に帝大再び機会を逸す。

▲第六回 両軍三者凡退。

▲第七回 両軍無為に終わった。内山の遊直球、森転倒しながら掴んでファインプレーを演じた。

▲第八回 太洋一死後、奥野一二間を抜き(森代走)坂田二匍に進む。笠川左中間に安打し、その間に森生還。種田右飛。帝大福澤投匍失に出たが、後者凡打に得点せず。

▲第九回 太洋一死後久慈中前に安打し、投手牽制球一失して久慈二塁を得たが、遠藤投匍。森三振に空し。帝大三者凡打して、三対一で太洋先ず凱歌を奏す。閉戦五時三十七分。


打順 守備 太洋 打数 安打 三振 四死 犠打 盗塁 失策
打順 守備 帝大 打数 安打 三振 四死 犠打 盗塁 失策
笠川 福澤
種田 小宮
築地 田中
久慈 田村
遠藤 小林
井上
高山
PH 片桐
奥野 内山
坂田
PH 笠原










高橋










島浦


30

29
□ 三塁打 遠藤   残塁 太洋3  帝大6

△ なお、二匍は2塁ゴロ、投匍は、ピッチャーゴロのことです。オーシャンは選手が9人しか出場していませんが、八回の表にショートを守っている森選手が代走に出ているのはなぜなんでしょう?それにしても試合時間が1時間22分とは早いですね。結局、帝大とは3戦して1勝2敗(3−1勝、3−4負、0−2負)でした。

 この試合で2番ショートを守っている小宮一夫選手 (山形高)は、帝大を卒業し、1932年、静岡県の掛川中学の野球部長に乞われて就任。この時,小宮先生の家に下宿しながら野球の指導を受け、その後プロ野球の「名古屋軍」に投手として入団したのが、「村松幸雄」さん(昭和19年入隊しグァム島で戦死。1939-1941:進藤 昭著、”戦場に散ったエース”の主人公)。 ちなみに村松選手が入団した当時の名古屋軍の監督は、早大から函館太洋倶楽部に入部(昭和2年)し、その後名古屋軍の監督となった根本行都さん(町谷長市選手と一緒に大正15年、早大卒)です。


◎ 昭和4年10月、イシイ・カジマヤ商店発行の野球スコアブック(定価金壱圓)に記載のラーバン式グラブの広告

 昭和4年に発行された野球のスコアブックに記載されているグローブの広告です。すごいのは、その特徴、「本品は、A,B,C,D,E各指先には適当の鉄粒を入れて製り猛球にグラブの指先を弾かれたり又は突指をする事を完全に防ぎ鉄粒の重力に依りて捕球の瞬間各指先は一様にボールを抱く如き作用を成し落球を止むるの効果あり、F 最新式皮紐の取付、G 表裏合して二重皮と成し堅良を計る、H 鳩目なし。鉄粒の目方、指の長短、パンヤの厚薄、型の大小等は各位の嗜好に適する様各種多様改良作製せり。」と書かれている点でしょうか。一度は使ってみたいような気がしますネ。ちなみに、著者は「飛田忠順」氏となっています。このスコアブックには、昭和5年の早慶戦やオーシャン倶楽部の戦績(対仙鉄、対日大、対帝大、対専修大)が書かれています。また、当然ながら売っていたのは、函館市恵比須町五十五番地にあった「クジ運動具店」です。

◎ 球場の変遷と旧千代台球場について(平成19年4月16日)

 太洋倶楽部創部当時は専用のグランドが無く、新川土手付近を練習場にしていたが、その後多くの人々の援助と協力により、明治43年(1910)に谷地頭運動場が完成、次いで大正10年(1921)に柏野運動場、昭和に入って9年(1934)に湯の川球場、15年(1940)に汐見市民球場、26年(1951)に千代台公園野球場と変遷を重ね、平成6年(1994)には千代台公園野球場を全面改修し今のオーシャンスタジアムが完成した。旧千代台球場は、戦後の混乱期に、多くの失業者や戦地からの引き揚げ者の方々の就業機会の確保を目的として昭和24年に制定された「緊急失業対策法」による失業対策事業として築造された球場で、スタンドの鉄筋コンクリート擁壁や吊り下げ式のバックネット、スコアボード以外は全部失業対策事業による人力作業で、外野スタンドを作るためにトロッコを使って残土を積み上げるなど、最大時には一日500名もの人員を投入した大工事で、昭和24年(1949)に着工し26年(1951)に完成し、立大時代の長嶋選手や杉浦投手などもここでプレーをしている。




<参考>
はこだて市史編さん室だより 第7号
函館市失業対策事業のあゆみ(平成6年3月:写真も)

中央下から左上に延びているのがトロッコのレール

三塁側内野席とレフト側外野スタンド
中央に見えるのがバックネットの支柱


A 明治42年6月の米国艦隊戦での新聞記事について追記します。(平成19年4月10日)

 当時「ファウル」は「フッウル」と表記されています。
 「ファインプレー」については「名をなす とか 功名をなさしめし」との表記がされています。
 例えば、「一死三塁でライトへの大飛球をイチローがファインプレーで好捕したものの、三塁ランナー松井がタッチアップでホームイン」の時は以下のように書かれています。「○○の大フライはイチローをして功名をなさしめしも、その隙に乗じて松井本塁を与う」。また「伊豫田選手が内野フライ、次の京谷選手がセフティーバンドで生き、続く伏見選手のショートの頭上を抜く二塁打で京谷選手が小躍りしてホームイン」の時は「伊豫田内野のフライに死し、京谷巧妙なるバントにて一塁を奪う、次の伏見この機逸すべからずと打ちたる球、遊撃の頭上を抜きたる無上の安全球に京谷雀躍して生還、伏見氏二塁を奪う」といった感じです。その他にも「犬死に」とか「活気場内に満ち、戦士死力を尽くして戦う」等々の記述があります。

 大正時代に入ると、かなり現代に近い野球用語になってきますが、このあたりについては次回に。


@ 創部2年目の1909年(明治42年)6月、太洋倶楽部は燃料や水の補給のため函館に寄港したアメリカ太平洋艦隊のチームと交歓試合を行い、結果は4戦4敗でしたが、善戦したオーシャン倶楽部の活躍は広く全国に知れ渡りました。

当時の函館日日新聞に試合経過等が載っていますので少しご紹介します。(平成19年3月25日)

▽函館日日新聞 明治42年6月20日(日)

◎函館 野球大快戦(一)

 巴港の風塵天に連なって黒く,海を蔽(オオ)うて来るものは夫れ何れの敵ぞクリーブランド軍来る。米艦勢来る。嗚呼彼れは東都城北の饒将軍早稲田を破って意気軒昂たるもの,この大敵に対し陣頭馬を進むるの勇士は誰ぞ,曰く巴港野球界の明星たる太洋倶楽部の健児の一団実に巴港空前の快挙にして球界の天地は為めに騒然たり。 されば六月十八日柏野原頭の戦いは其の壮烈言語に絶し米軍六尺有余の偉大漢が奮躍猛襲の勢い誠に凄じく殊に彼の有名なる投手デポートが投球は電光石火眼に止まらざる有様。流石太洋の勇士が健闘も南風競わず十対二を以て破れたるは是非もなし,今其の戦況をつまびらかに左に記さん。

△ 第一回 

 米艦方の請によりて太洋先ず攻む,好漢奈良先頭の栄を蒙り遂に四球に出で伊豫田立つや捕手のエラーに乗じ奈良氏二塁を陥る。伊豫田一塁に死すと雖も奈良は三塁にあり,次の京谷氏内野フライに斃(タオ)れ伏見氏二塁ゴロ為め一塁に刺され無念奈良氏は立ち往生、代わりて米軍攻む,デーソン三度振りて当たらず一塁に屍を曝(サラ)す,次のクリーデン長棒一閃、球は左翼をぬき,身は二塁塁上にあり,デポート四球を利して出でマネハン,バントに死すと雖も次に立ちたるアイタリアン一塁,二塁間をぬきクリーデンを生還せしむ,ヘール,ゴロを二塁に呈して一塁に刺されデポート,アイタリアン立ちたるまま得点一。

△ 第二回

 下河原四球に出で井上三振は此の間下河原二塁を奪う,立石一塁に身を殺して下河原を三塁に送りしも岩淵氏の三振のため,下河原,スタンデング得る所零。米軍代わりて攻む,チャスター四球に出で次のジョンソンのバント功なくして一塁に倒る,されどチャスターは二塁にあり,次いで二塁守のエラーは三塁を与う。次のフィアボン天をつくのフッフル伏見氏に得られてデーソン代わりて立つ此の間捕手のエラーはチャスターを生還せしむ、次いでデーソン四球に出でしも二塁へのすべり込み其の功なくして二塁守に殺さる得点計二。  つづく

) 巴港(ハコウ):函館港は、海面が深く湾入して巴状になっているところから、俗に”巴の港”といわれていました。

 残塁は「立往生」、ヒットは「安全球」,二塁打になると無上の安全球などと書かれています。フッフルは「ファールボール」でしょうか。
それにしても、「一塁に屍を曝す」とか「長棒一閃」とかすごいですね。
 また、この当時の記録は、得点、打撃数、三振、四球のみで安打数より本塁を踏んだ得点数の方が評価されていたような書かれ方です。

 Web管理者もこのあたりの事は詳しくないので、何かお気づきの点があれば問い合わせ先までお知らせ下さい。

なお、6月18日の新聞には試合観戦の注意事項として次のような記述があります。
尚、見物人は左の事項注意すべし

一、運動場縄張内に入るべからず
一、球に手を触れるべからず
一、時任牧場の牧草畑に乱入する時は警官に引き渡さるべし